ているのかと案外静かに聞くのだった。
「もう昔のことで、一二度逢ったきりですから、向うは御存じないでしょうが……。」
 そして口を噤んだのだが、依田氏がその続きを待つように黙っているので、彼は云ってのけた。
「何ですか、あのひとを本当に好きで、そのことばかり考えていた時があるような気がするんです。」
 云ってしまってから、彼は顔が赤くなるのを感じて、自分でもばかばかしく思ったが、それよりも、依田氏が小さい眼をじっと――それもやさしく――見据えたまま、口髭をなお一層逆立て、太い首を縮こめて、呆れたように云うのだった。
「すると、君の初恋というわけかね。」
 そしてふいにばかげた哄笑がとびだしてきた。岸本は抗弁しようと思ったが、言葉が見つからなくてまごついてるうちに、依田氏の太い指先で卓上の呼鈴が鳴らされ、出て来た女中に、奥さんを呼べというのである。岸本は何事かと思って、寺田菊子さんのことはそのままに、口を噤んでいると、やがて出て来た奥さんが、依田氏に似ずばかに小柄なひとで、細っそりした胸に帯がふくらんで目立って、少し険のある高い鼻の顔をつんとすましてるのだった。依田氏はすぐ岸本を紹介して、笑いながら云うのだった。
「あの寺井さんね、あれが、岸本の初恋の人だそうだよ。」
「まあ。」
 奥さんは呆れたように岸本をじろじろ眺め初めた。岸本の方で呆れ返った。何をそんなに笑ったり呆れたりすることがあるのか、腑におちなくて、弁解する気にもなれなかった。「東京の人」はものずきな閑人が多いと聞いていたが、この人たちもそうかしら、などと考えるだけの余裕がもてて、逆にこちらから二人の様子を窺ってやるのだった。それが、さすがに女だけに敏感で、奥さんの方には反映したのであろう。やさしい笑顔をして、いろいろ尋ねてくるので、岸本も仕方なしに受け答えをしてるうちに、事情が自然にうき出して、初恋というほどのものでなかったことも分り、寺井菊子さんは良人に死に別れて、不仕合せのうちに健気にも、小さなバーを経営して奮闘してる由も分ったのだった。
「昔のよしみに、飲みにいってやり給えよ。」
 依田氏はそう云って愉快そうに笑うのだった。奥さんも別にとめようともしないで、ほんとの初恋になったら大変ねなどと、にこにこしていた。中学を出たばかりの岸本には、それがまた余りに自由主義的で、律義な両親のことなどを比べ考えては、心の落ちつけどころが分らなくなるのだった。
 然しそうしたことから、岸本は意外にも依田氏夫妻と親しみが出来、また、寺井菊子のバー・アサヒ(恐らく郷里の旭川からとってきた名前であろう)へも出入するようになった。
 初めは、さすがに、様子が分らないので、午後、客のなさそうな時間にいってみた。上野公園を少し歩いて、広小路を二度ばかり往き来して、それから横町に曲ると、すぐに分った。赤黒く塗ってある扉を押してはいると、中は変に薄暗く、高い窓の硝子だけがぎらぎら光って、室の真中に大きな鉢の植木が、お化のようにつっ立っていた。その向うにいろんな瓶の並んでる棚の前に、コップを拭いてる背の高い女がいて、近視眼みたいな眼付でこちらをすかし見ながら、機械的に微笑してみせた。見覚えがあるようなないようなその顔に、岸本は一寸ためらったが、つかつかと歩いていって、お辞儀をした。
「寺井さんは、あなたですか。」
「はあ。」
 怪訝[#「怪訝」は底本では「訝怪」]そうなそっけない返事だった。がその時、岸本ははっきり思い出した。不揃いな髪の生え際と深々とした眼附……。だがそれだけで、ほかは夢想の彼女とまるで違っていた。束髪に結ってる髪が、わざとだかどうだか縮れ加減で変に少くさっぱりしていて、額が広く、それに似合って、すっきりした鼻と引緊った口と小さく尖った※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]――どこか混血児くさい顔立と皮膚。どう見ても三十歳以上に老けていた。その、夢想とちがってる彼女の姿が却って、岸本を落付かして、岸本はすぐに名乗ってみたのだが、彼女はただ微笑んでるきりで、感情を動かした様子は更に見えなかった。
「まあこちらへいらっしゃいよ。」
 彼を窓のそばの席へ導いて、自分でコーヒーを入れてきて、彼にすすめながら、真正面にじろじろ彼の様子を眺めるのだった。ちっとも嫌な視線ではなかった。彼はぽつりぽつり話しだした。こんど上京してきたことと、依田氏を訪問したこと、彼女の噂をきいたこと……それから、彼女が黙って聞いてくれてるのに力を得て、昔彼女に逢ったのを覚えてることを依田氏に話して、初恋かとからかわれたことまで云ってしまった。
「あら、そうお。」
 彼女はただにこにこしてうなずいてみせるきりだった。依田氏のところみたいな反応は更になくて、ただ柔いやさしいものが彼を包んでいった。それは故郷
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