んできた。彼の肩をかすめ、戸棚にぶつかり、大きな音を立てて、その息苦しい淀んだ空気の中に冷風を吹きこんだようで、砕け散った。
それが、誰にも――角刈の男自身にも――何のことやら分らないほんの一瞬間のことで、次の瞬間には、岸本は自分の卓子を離れて、そこらをのっそり歩きながら、静かな調子で云ってるのだった。
「つまらない邪推はやめ給えよ。マダムとあの人とは何の関係もない。僕がよく知っている。」
岸本と彼等とは、度々出逢って顔見識りの間ではあったが、そんな風に初めて口を利きあったのはおかしなことには違いなかった。そればかりでなく、コップの一件もすぐに忘れられて、角刈の男もこちらに出てきて、みんな一緒になって、本当にそうかと尋ねかけてくるのだった。そうだと岸本は断言した。その証拠には、マダムはあの人の家に出入りしてるし、奥さんとも昔からの懇意であると、饒舌ってしまった。それが、彼等の狡猾な笑いを招いた。それこそ猶更、マダムと「ドラ鈴」とが怪しい証拠で、もう公然と第二夫人ではないか。そこんところに気付かないのは、さすがに学生さんは若い若い、というのであった。そして彼等から笑われると、岸本はなおやっきになって、明かに分りきってることをどうして説明出来ないかと、じりじりしてくるのだった。
固より、明かに分りきってるといっても、それは彼一人の気持からに過ぎないことではあったが――
あの人――依田賢造――と識ったのも、最近のことだった。郷里岡山の田舎の中学校を終えて、東京のさる私立大学の予科に入学して、愈々東京在住ときめて上京してくる時、その田舎出身の大先輩として、或る商事会社の社長をしてる依田賢造へ、紹介状を貰ってきたのだった。気は進まなかったが、紹介状の手前、思いきって訪れてみると玄関わきの狭い応接室に通された。日曜の朝の九時頃だった。長く待たされた後、依田賢造氏が黒い着物に白足袋の姿で出てきた。指先で押したら餅みたいに凹みそうなその肉附が、先ず彼の眼についた。それから、短いが黒い硬い髪の毛、額の深い横皺、荒い眉毛と小さな眼、がっしりした鼻と貪慾そうな口、その口から出る声がばかに物静かで細かった。その声と眼と全体の感じとが、恐らく「ドラ鈴」の綽名の由来らしいが、うまくつけたものだと岸本は後になって思ったのである。ところがその最初の印象は、暫く話してるうちに他の印象と重りあって、茫とした捉えどころのないものとなった。物静かな細い声が出る口から、時々、太っ腹らしいばかげた哄笑がとび出してくるし、小さな眼から、時々、鋭い針のようなものが覗き出すのだった。ところがまた、彼が学校のことや将来の志望などを述べてるうちに、いつしか哄笑は影をひそめてしまい、眼はその針を隠してうっとりと、丁度居眠りでもするような色合になってきた。そこで岸本は電車の中で見る「東京人」の顔を思い浮べ、こくりこくり居眠りしてるか、鋭く神経質に人の虚を窺ってるか、二つに一つの顔しかないことを考えだし、依田氏の顔を不思議そうに眺めながら云った。
「お眠いんですか。」
依田氏ははっと眼を見開いて、太い眉根を寄せたが、言葉の意味が分ると、とってつけたように笑って、日曜日は余り早く人を訪問するものではないと、田舎者をさとすらしく云ってきかせた。そうかなあと岸本は思って、すぐに帰りかけようとしたが、そう現金に帰らなくてもよいと云われたので、また迷って腰を落付けていると、依田氏は初めて、郷里のことを何かと尋ねてきた。そこでまた一しきり話してるうちに、寺井という名前が出てきた。寺井家は岸本の家と遠縁に当っていて、もう十年ばかり以前に東京へ引越してしまって、それきり岸本啓介の耳には消息が達しなかったが、然しなつかしい名前だった。まだ彼が小学校にあがりたての頃、母に連れられて、町の寺井の家へ行ったことがあって、その時寺井菊子さんに逢った。どんな話をしたか少しも覚えていないが、適宜に石や植込のある閑静な日の当った庭をじっと眺めて、縁側に片手をついて坐っていた菊子さんの姿が、そしてその円みをもった細い淋しそうな眉と、澄みきった奥深い眼とが、深くいつまでも彼の心に残ったのだった。其後菊子さんは結婚し、寺井一家は東京に引越したと、父母の話では彼は聞きかじったのだが、菊子さんのことが心にあるので、わざわざ尋ねることもしかねて、ただ一人で彼の面影をはぐくみ、いろんなことがあった末に彼女と結婚するようになるなどと、他愛ない少年の空想に耽った時代もあるのだった。その寺井さんがいま東京にいて、あの人も不幸続きで……と依田氏は言葉を濁すのである。岸本はふいに少年時の夢にめぐり逢ったような気がして、菊子さんという人がいた筈ですがと相槌をうつと、依田氏はびっくりしたように唇をつきだして、硬い口髭を逆立てたが、知っ
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング