って、茫とした捉えどころのないものとなった。物静かな細い声が出る口から、時々、太っ腹らしいばかげた哄笑がとび出してくるし、小さな眼から、時々、鋭い針のようなものが覗き出すのだった。ところがまた、彼が学校のことや将来の志望などを述べてるうちに、いつしか哄笑は影をひそめてしまい、眼はその針を隠してうっとりと、丁度居眠りでもするような色合になってきた。そこで岸本は電車の中で見る「東京人」の顔を思い浮べ、こくりこくり居眠りしてるか、鋭く神経質に人の虚を窺ってるか、二つに一つの顔しかないことを考えだし、依田氏の顔を不思議そうに眺めながら云った。
「お眠いんですか。」
 依田氏ははっと眼を見開いて、太い眉根を寄せたが、言葉の意味が分ると、とってつけたように笑って、日曜日は余り早く人を訪問するものではないと、田舎者をさとすらしく云ってきかせた。そうかなあと岸本は思って、すぐに帰りかけようとしたが、そう現金に帰らなくてもよいと云われたので、また迷って腰を落付けていると、依田氏は初めて、郷里のことを何かと尋ねてきた。そこでまた一しきり話してるうちに、寺井という名前が出てきた。寺井家は岸本の家と遠縁に当っていて、もう十年ばかり以前に東京へ引越してしまって、それきり岸本啓介の耳には消息が達しなかったが、然しなつかしい名前だった。まだ彼が小学校にあがりたての頃、母に連れられて、町の寺井の家へ行ったことがあって、その時寺井菊子さんに逢った。どんな話をしたか少しも覚えていないが、適宜に石や植込のある閑静な日の当った庭をじっと眺めて、縁側に片手をついて坐っていた菊子さんの姿が、そしてその円みをもった細い淋しそうな眉と、澄みきった奥深い眼とが、深くいつまでも彼の心に残ったのだった。其後菊子さんは結婚し、寺井一家は東京に引越したと、父母の話では彼は聞きかじったのだが、菊子さんのことが心にあるので、わざわざ尋ねることもしかねて、ただ一人で彼の面影をはぐくみ、いろんなことがあった末に彼女と結婚するようになるなどと、他愛ない少年の空想に耽った時代もあるのだった。その寺井さんがいま東京にいて、あの人も不幸続きで……と依田氏は言葉を濁すのである。岸本はふいに少年時の夢にめぐり逢ったような気がして、菊子さんという人がいた筈ですがと相槌をうつと、依田氏はびっくりしたように唇をつきだして、硬い口髭を逆立てたが、知っ
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