ているのかと案外静かに聞くのだった。
「もう昔のことで、一二度逢ったきりですから、向うは御存じないでしょうが……。」
そして口を噤んだのだが、依田氏がその続きを待つように黙っているので、彼は云ってのけた。
「何ですか、あのひとを本当に好きで、そのことばかり考えていた時があるような気がするんです。」
云ってしまってから、彼は顔が赤くなるのを感じて、自分でもばかばかしく思ったが、それよりも、依田氏が小さい眼をじっと――それもやさしく――見据えたまま、口髭をなお一層逆立て、太い首を縮こめて、呆れたように云うのだった。
「すると、君の初恋というわけかね。」
そしてふいにばかげた哄笑がとびだしてきた。岸本は抗弁しようと思ったが、言葉が見つからなくてまごついてるうちに、依田氏の太い指先で卓上の呼鈴が鳴らされ、出て来た女中に、奥さんを呼べというのである。岸本は何事かと思って、寺田菊子さんのことはそのままに、口を噤んでいると、やがて出て来た奥さんが、依田氏に似ずばかに小柄なひとで、細っそりした胸に帯がふくらんで目立って、少し険のある高い鼻の顔をつんとすましてるのだった。依田氏はすぐ岸本を紹介して、笑いながら云うのだった。
「あの寺井さんね、あれが、岸本の初恋の人だそうだよ。」
「まあ。」
奥さんは呆れたように岸本をじろじろ眺め初めた。岸本の方で呆れ返った。何をそんなに笑ったり呆れたりすることがあるのか、腑におちなくて、弁解する気にもなれなかった。「東京の人」はものずきな閑人が多いと聞いていたが、この人たちもそうかしら、などと考えるだけの余裕がもてて、逆にこちらから二人の様子を窺ってやるのだった。それが、さすがに女だけに敏感で、奥さんの方には反映したのであろう。やさしい笑顔をして、いろいろ尋ねてくるので、岸本も仕方なしに受け答えをしてるうちに、事情が自然にうき出して、初恋というほどのものでなかったことも分り、寺井菊子さんは良人に死に別れて、不仕合せのうちに健気にも、小さなバーを経営して奮闘してる由も分ったのだった。
「昔のよしみに、飲みにいってやり給えよ。」
依田氏はそう云って愉快そうに笑うのだった。奥さんも別にとめようともしないで、ほんとの初恋になったら大変ねなどと、にこにこしていた。中学を出たばかりの岸本には、それがまた余りに自由主義的で、律義な両親のことなどを比べ考え
前へ
次へ
全14ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング