んと膝を折って坐った。それから店からの返書を差出した。田原さんがそれを読んでいる間じっと控えていた。
「やあ御苦労だった。」と云って田原さんは返書を巻き収めた。
「もう用はないから階下《した》へ行って勉強するがいい。」
「はい遅くなってすみませんでした。」
「なに遅くなってもかまわないんだが、何だか今日はいつもより手間取ったようだね。家へでも廻ったのか。」
「いえ、広田さんが店に居られなかったものですから。」そう云って良助は、広田さんが店に居なかったので、自宅に尋ねてゆき、また連れ立って店まで帰って来たことを報告した。広田さんと云うのは、店の方を殆んど預っている主任店員だった。終りに良助はこうつけ加えた。
「広田さんも子供が多かったりなんかで、種々家の方に用事もあられますようです。それでも止むを得ない用の外は、いつも晩まで店に居られますそうですが、丁度今日はお出にならない所に行き合わせましたから、遅くなりました。」
 田原さんは口元に笑みを浮べながら、良助のませた言葉をきいていた。そして彼の心に喜ばしかったものは、良助の「善意の解釈」であった。
 重夫は父を以て余りに「善意の解釈」をなし過るものとして、常に父の欠点の一に数えていた。それが田原さんを尊敬し心服している怜悧なる良助にも在った。
 田原さんは今、重夫のその言葉を思い出したのである。「善意は度を過せば悪意となる。」と重夫は云っていた。然し田原さんにとっては、善意は常に善意であった。否それは、善意悪意を通り越した「彼に自然にそうある」ものであった。そして富と閑散とを有し四十歳を越した彼の心は、それで常に静かであった。

     二

 過去の話。
 その一――
 或年の暮れ、神保町の店で一つ不正事が発覚した。感応コイル三個、加減抵抗機二個、及び電流計一個が不足していたのである。帳簿には、それだけの品物は正しく店にはいってい、代金も支払われているのに、品物は店に無く而も売却せられたことにもなっていなかった。明かに誰かがそれを途中でかもしくは店から持ち出して瞞着したに相違なかった。代金約三百円余は店として大したことではなかったが、事件は不問に附すべきものではなかった。
 田原さんは主任店員の広田を店の二階の自分の室へ呼んだ。
「僕は何も君を責めるわけではない。分ったかね、君を責めるわけではない。然し君も主任店員として一半の責は負わなければならない。で秘密に調査をしてくれないかね。僕よりも君の方が店の内情に通じていると思うから君に頼むんだが……。」
 広田は黙って考えていた。
「どうだろう?」と田原さんはまた云った。
「然し店の者にむやみに疑をかけるわけにもゆきませんし……。」
 広田は当惑そうであった。
「そうだ、他人に疑をかけるのは悪いことだ。だから秘密にそれとなく調べてくれ給え。」
 それから田原さんは会計の原口を呼んで、暫く事件を秘密にするように頼んだ。物品の不足を知っているのは田原さんと広田と原口とだけだった。
 それから一週間たった。然し犯人に就いては何の手掛りもなかった。
 或時原口は田原さんの方へ伺った。そしてこんなことを云った。
「余りに人を信用されるといけませんです。犯人は意外の所に在るのかも分りませんから。」
 田原さんは、首を垂れて何やら考え込んでいるらしい原口の方をじっと眺めた。そして云った。
「ああ宜しい。君もよく注意してくれ給え。私《わし》の方でもそれとなく注意はしているんだから。」
 実直な老人の原口は何やら物足りなそうにして帰っていった。
 それから数日後のことである。広田が店で田原さんの所へやって来た。
「其後更に見当がつきませんが、少し疑わしい点もありますので、も一度物品を調べて見ては如何でございましょうか。」
 で田原さんは、広田と原口と三人で、再び店の物品を調べてみた。すると前に不足していたものは皆揃っていた。会計の方も別に怪しい点は無かった。
 田原さんは、何か云いたそうにしている広田をじっと見ながら、こう云った。
「これで宜しい。何も不足したものがない以上、もう調べる必要もあるまいと思う。ただ君達に注意しておくが、以後気を附けておいてくれ給え。」
 雪になりそうに思える寒いどんよりと曇った日であった。田原さんは椅子に腰掛けながら、瓦斯煖炉の火に輝らされている広田の顔をじっと見つめた。髪を綺麗に分けたその額のあたりに汗がにじんでいた。
「さあもういいから行って事務をとってくれ給え。」と田原さんは云った。
 原口は丁寧にお辞儀をしてさっさと出て行った。広田は室を出る時に一度ちらとふり返って田原さんの方を盗み見た。田原さんはそれを見落さなかった。
 その晩、田原さんは俥に乗って広田の飯田町の住居を訪れた。髪を櫛巻にした細君が出て来て、その突然の来訪におどおどしていた。
「急な内談があるので、」と云って田原さんは座敷に通って広田の帰りを待った。
 四人の子供があって末の児が病中である家の中に、下女一人の細君はただまごまごしていた。それが田原さんにもよく分った。
 襖の影から男の児が二人指をくわえながら、交る代る田原さんの方を覗いた。
 九時すぎに広田は家に帰って来た。彼は着物も更めないでそのまま田原さんの所へ来て、頭を畳にすりつけん許りにしてお辞儀をした。
「子供が病気だそうだね。」
「はい。」と広田はただ答えたきり首垂れてしまった。顔色が青ざめていた。
 暫く沈黙が続いた後に、田原さんは云い出した。
「僕が突然やって来たわけは君に分っているだろうね。」
「はい。」と広田はまた低く答えた。
「僕は過ぎ去ったことは敢て咎めようとするのではない。然しああいうことは、もし店員全体に分ると悪い影響を及ぼすものだからね。」そして田原さんはじっと広田を見やった。「以後はよく注意してくれなくては困る。第一君は店の全部を取締る地位に在るではないか。その君自身が……いや僕はもうあのことに就いては何も云わない。君は十分悔悟している筈だから、ただ、このことだけはよく注意しておいて貰わなければならない。一度やったことは二度やり易いものだ。いいかね、一度行われたことは、後まで尾を引くものだ。それをよく考えておいてくれなくてはいけない。此度のことは君のためにいい修養だ。それを生かすか否かは全く君自身の力に在る。……僕の云うことは分ったろうね。」
 広田は黙って顔を挙げた。頬の筋肉を痙攣さしていた。
「ただ無謀な考えを起さないようにし給え。」と田原さんは云い続けた。「君はまだ四十に間もある。君の生涯はこれからだ。そして大に店のために働いてくれ給え、店を自分の事業だと思ってね、いいかね。」
 それから田原さんは、無雑作に紙幣を百円だけ其処に差出した。
「これは子供の病気に対する僕の心ばかりの見舞のものだ。取っておいてくれ給え。子供の病気はよく面倒を見てやらなければいけない。」
 広田は涙をぼろぼろと落した。そして何とも云わないで、ただ頭を低く垂れたままじっとしていた。
「今日は、一寸見舞に来たのだが、余計なことを饒舌って許してくれ。それでは僕は外に用もあるので……。」
「お心は十分に分りました。以後全く注意いたしますから……。」広田はそれきり何にも云えなかった。
 田原さんは立ち上ると、先刻から襖の影で二人の話をきいていたらしい細君が、眼に一杯涙をためてあわてて玄関の式台に田原さんの下駄を揃えた。
 田原さんは玄関でも一度広田を呼んだ。
「僕の云ったことは分ったろうね。それから原口へはつつまず事情を話しておく方がいい。実直な老人だから、話をすればよく分る。ただくれぐれも嘘を云ってはいけない。」
「はい。」と、広田は答えた。
 田原さんはそのまま待っていた俥に乗った。
 その翌日は雪であった。田原さんはわざと店に出かけないで、雪の降るのを書斎から眺めていた。そしてその晩、広田のことを妻と重夫とに話した。それからこうつけ加えた。
「広田は実際、金が必要であったに違いない。ただ物品をまた店に入れるについて無理をしたかも知れないが、それは反って彼のためにいいだろう。」

 その二――
 田原さんの隣りに上坂《うえさか》という家があった。其処の細君としげ[#「しげ」に傍点]子とはいつしか顔馴染になって、夏の夕方など静かな通りで立ちながら話をすることが時々あった。それからまた田原さんの向うへ宇野という人が後に越して来た。其処の細君もいつしか前の二人と親しくなった。そしてその細君は時々田原さんの家へ遊びに来たり、上坂の家へ遊びに行ったりした。四十許りの子供の無いヒステリックな女であった。
 所がだんだん向うから接近してくるにつれて、宇野の細君はしげ[#「しげ」に傍点]子に種々なことを話した。それが皆他人の家の内情に関することであった。しまいには、その話が上坂の家の方のことに移っていった。――上坂の家は借財のために二度強制執行を受けたことがある。上坂の細君はもと賤しい素性の女であった、上坂の細君がしげ[#「しげ」に傍点]子のことをお人好しの馬鹿だと云った、云々。
 実際人のいいしげ[#「しげ」に傍点]子はそんな話をただ「左様ですか。」と云ってきき流していた。そして相変らず上坂の細君とも挨拶を交わしていた。
 或時のこと、丁度夕方しげ[#「しげ」に傍点]子が何の気なしに表に立っていると、其処に上坂の細君が通りかかった。しげ[#「しげ」に傍点]子はいつものように挨拶をした。すると上坂の細君は、その挨拶に答えもしないで向うを向いたまま通りすぎてしまった。
 しげ[#「しげ」に傍点]子は何だか変だと思ったがそのままにしておいた。そして暫く上坂の細君と交渉が絶えた。
 そのうちに女中の口からおかしな噂を彼女はきき込んだ。彼女が宇野の細君に向ってさんざんに上坂の細君の悪口を云ったそうである。――上坂の細君はもと素性の賤しい女である、お人好しの馬鹿である、云々と。
 しげ[#「しげ」に傍点]子はその時になって凡てのことがはっきり分って来た。そして温和《おとな》しい彼女も、宇野の細君に対して一方ならず腹を立てた。憤慨の余り彼女は夫に向って、凡てのことを話した。
 その時田原さんはこう云った。
「それはお前が馬鹿だからだ。ああいう人達と一緒になるからいけないんだ。よく自分のことを考えてごらん。お前は今腹を立てている。宇野の細君に対して腹を立てることは、お前自身を宇野の細君と同等の所へ引下げるからだ。あんな者と同じになりたけりゃ、いくらでも腹を立てるがいいさ。」
「だって余《あんま》りではありませんか。自分で上坂さんの奥さんの悪口をさんざん云っておいて、それを皆私が云ったように上坂さんの奥さんの所で饒舌ったんですもの。腹が立つ位はあたりまえですわ。」
「そうだ、お前が宇野の細君と同じ位な人間だったら腹が立つのが当り前だ。けれどお前はもっと偉くなっていなけりゃいけない。もしお前が宇野の細君よりずっと偉いなら、何も腹を立てるに及ばないさ。他人に対して腹を立てるのは、その者と同じ所に自分を引下げるからだ。何も宇野の細君と同じ者にならなくったっていい。世の中にはああいう人もある位に思って上から見下してやればいいんだ。」
 しげ[#「しげ」に傍点]子は不満そうな顔をしながらも、それには何とも答えなかった。
 それから数ヶ月たった。そのうちにまたいつしかしげ[#「しげ」に傍点]子と上坂の細君とは口を利くようになった。そして宇野の細君が、二人の間をしきりに離間していることが分った。そしてまた、宇野の細君は二人の間に立って妙な地位に陥った。
 その後宇野の家は他へ移転した。
 田原さんは云った。
「ああいう者は世の中にいくらも居るものだ。男にも可なりある。然しああいう人の嘘は、それ自身の罪悪じゃない。嘘をつかずには居れないような性格に出来ているのだ。そういう性格に向って腹を立てるのは、曲った木に向って腹を立てるようなものなんだ。真直な木が曲った木に対して自分と同じ様でないと云って腹を立てるのは愚かなこ
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