田原氏の犯罪
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)重夫《しげお》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全身|微睡《まどろ》み

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+昜」、163−下−11]
−−

     一

 重夫《しげお》は母のしげ[#「しげ」に傍点]子とよく父のことを話し合った。それは、しげ[#「しげ」に傍点]子にとっては寧ろどうでもいい問題であったが、重夫にとっては何かしら気遣わしい、話さないではおれない問題であった。
 実際、重夫の父田原弘平は凡てに於て観照家でそして余りに寛大であった。然しそれはいいことであったかも知れない。ただ重夫が気遣わしく思ったのは、物にぶつかってゆく力を欠いだ父のそうした生活態度を通して、父のうちに或る空虚が澱んで来ることであった。其処に眼を向けるのは気味悪くまた恐ろしかった。然し重夫はそうせざるを得なかった。
「この頃お父さんはよく夜中に起き上って庭を散歩なさるではありませんか。」
 重夫は母にそう云った。
「いえ夜中と云ってもそれは朝の四時か五時頃なんですよ、」としげ[#「しげ」に傍点]子は答えた、「暑くなると朝早く起きる方が身体にいいと云っていられるのですよ。お前さんのように寝坊するよりはね。」
 彼女は微笑んでいた。何事にも穏かな素直な微笑みを洩らすのは彼女の癖であった。いつも善意に、いや寧ろ善意とさえも云えない穏かな気持ちに満ちている彼女は、心持ち痩せてはいたが、常に若々しくまた清らかであった。その切れの長いそして細い眼に生命の余裕を示していた。
「然し、」と重夫は云った、「お父さんのは早く起きられるというよりも眠れないから仕方なしにお起きになるんではないでしょうか。」
「さあねえ、私にはよくお眠りになるように思えるんですがね。何かそんなことを仰言っていられたことがありますか。」
「別に何にも云われはしませんが……。いつでしたか私が夜遅くまで起きて書物を読んでいまして、それから寝ようと思って縁側を通る時に、まだ寝ないのかって室の中から声をおかけになったことがあります。そんなことがよくあるんです。何だかお父さんはいつでも眼が覚めていらるるようなんですが……。」
「それは眼敏《めざと》くていらるる故《せい》なんでしょうよ。元からそうでしたよ。それに年を取って来ると猶更そうなるものです。」
「然しまだ四十の上を幾つも越してはいられないじゃありませんか。」
「年齢《とし》を云えばそうですがね、四十の上になると自分では随分長く生きたような気がするものですよ。」
「ですが……そう、つい先達てのことですよ。私が友達と日曜に朝早くから江の島の方へ遊びに行ったことがありましたでしょう。あの朝のことです。五時頃に起き上って、楊枝を使いながら縁側に立っていますと、お父さんがじっと庭の向うに立っていられたのです。後ろから見ると急にひどく髪の毛が薄くなられたような気がして、妙な気持ちがしたのです。が、いつまでもお父さんはじっと向う向きに立っていられます。それがこう妙に空洞《うつろ》な老木の幹を見るような感じがするのです。まだ朝日は射していませんでしたが、あの向うの植込みの下まで透き通るような明るみに夜が明け切っていました。私は何とも云えないような気持ちになって、じっとお父さんの後姿を見ていますと、急に私の方をふり向かれて、『珍らしく早いね。』と云われました。前から私が見て居るのを知っていられたのに違いないんです。皮肉なような妙な笑顔さえ浮べていられたのです。それで私はすっかり狼狽《まごつ》いてしまって、『もう夜が明けてしまったんですね。』と変なことを云ってしまいました。するとお父さんはじっと遠くから私の眼の中を覗くようにして、『そうだ、この頃は四時頃にもう少し明るくなるんだ。お前なんかはそんなことは知らないだろう。』そう云われて、また前の皮肉なような笑顔をされるのです。それから、私が黙っているのを押っ被せるようにして、『早く支度をしないと遅くなるよ』と云われたまま、また向うを向いてしまわれました。私はその時、何だか大変悪いことをしたような気がして、何とも云えなかったのです。実際変な気がしたんです。」
「だってそれは何でもないことではありませんか。」
「ええ別に何でもないことですけれど、それでも……。」
 重夫の心のうちには何か「何でもなくないこと」が在ったけれど、それが余りに漠然としているので口に出してははっきり云えなかった。
「だが変だと云えばお前さんも変ですね。」
「なぜです?」
「でも妙な考え方をするではありませんか。」
「然しお父さんの姿がそんな考え方をさせるんですから。」
「それでは二人共変なんですね。」
 しげ[#「しげ」に傍点]子はそう云ってまた微笑みを洩らした。然し彼女もそれきり口を噤んで、庭の方を透し見るようにした。
 東に面した庭には午後の日脚は軒に遮られて落ちてはいなかったが、それでも暑い日光の漲った空の反映を受けて、植込みの影の空気まで暑苦しく乾燥しているように思えた。木の葉がばさばさしている、植木鉢の土が乾き切っている、そして高地芝の間の飛石が如何にも白い。
「今年は暑そうですね。」と重夫がふと云い出した。
「そうねえ、六月でこんなだから。」
「今年は皆で山へ出かけようではありませんか。」
「私も何処かへ出かけたいと思っていますがね。でも同じ行くなら海の方がよくはありませんか。」
「海は頭が悪くなっていけませんよ。」
「また頭ですか。」そう云ってしげ[#「しげ」に傍点]子は眼を挙げて重夫の顔を見た。「お前さんはいつも頭のことばかり心配していますね。」
「それは僕等のような若い時は、頭が一番大切なんですから。」
 その時二階の梯子段に足音がした。父が下りて来るのであった。それをきくと二人共妙に口を噤んでしまった。然しそれは別に父を憚ってではなかった。自然に二人の心がそちらへ引きつけられたからである。
 父は重い足どりで歩いて来て二人の所へ顔を現わした。
「お眼覚めですか。」としげ[#「しげ」に傍点]子が云った。
「ああ。」
「今日はわりにお早いんですね。」と重夫が云った。
「それでもぐっすり寝入ってしまった。昼寝はよくそして短く眠るに限るね。」
 然し乍ら、田原さんは如何にも陰欝な顔をしていた。濃い眉根から広い額へかけて、彼がいつも怒った時に示すようなかすかな竪皺が寄っていた。そして長く濃い口髯に半ば隠された口元には、意力の欠乏を示す空虚が漂っていた。
「誰も来なかったか。」
「いえどなたもお見えになりません。」
 田原さんはその答えをきいて、軽く頭を横に傾げた。それから冷たい水で顔を洗うために勝手許へ行った。
 水で顔を洗い、それから頭まで洗ってみると、田原さんは先刻の感情がいつしか消え失せて、頭の中が妙にぼんやりしているのを感じた。然しそれはまだいくらかよかった。
 先刻の感情と云うのは、彼が昼寝から覚める時に覚えた感情である。
 何か淋しい引入れられるようなものが彼の心にふうわりと被さって来た。それは単なる情緒ではなかった。淋しい佗びしいそして頼り無いようなものが、彼の心の上に煙のようにふうわりと投げかけられたのである。で彼は本能的にそれを脱しようとして眼を開いた。然し彼はまだその時まで半ば眠っていたのである。そして彼が脱しようとしたその寂寥たる或物が、また引き入れるようにして彼の眼瞼を閉じさした。彼は全身|微睡《まどろ》みながら、覚めかかった心をじっと、その或物へ集中した。じっとしているに堪えられないような、それでもじっとしていなければならないような、荒凉たる感じが彼のうちにその時湧いて来た。それは、空虚な柔い擽ったいような苦悩であった。そしてそれに身をうち任していると彼はそよそよと微風が自分の上を流れてゆくのを感じた。その時には彼は再び眼を開いていた。開け放した二階の室から、庭の木立の梢が見える。緑葉がちらちらと動いている。その向うに青い空が在る。空の中にぽつりとち切れた雲が一片浮んでいたが、それがすぐに蒼空の奥に消え去ってしまう。それが如何にも静かである。静かでありながら如何にも雄大な推移である。雄大な推移でありながら如何にも頼り無く佗びしい。雲の消え去った大空から、生温い微風が流れてくる……。
 彼は毛布を足先ではねのけて、枕の上に半身を起してみた。それが非常な努力に感じられた。そして両手を伸すと共に、大きく欠伸を一つした。その欠伸が彼にはっきり胸の空虚を感じさした。何かが自分のうちから掴み去られたがようであった。全身の筋肉がぐたりとしていた。それが如何にも静かでそして頼り無かった。その時彼の心のうちに懶い憂欝が濃く澱んで来た。
 彼が見たのは、大自然のうちに流るる静かな推移でもなかった。大空の下に置かれた人生の卑小でもなかった。然しあるがままの生の懶さ淋しさであった。それは、「今日もまた暮れた、明日もまた明けるであろう、」という感情と似たものであった。その感情の底にしみ込んでくる在るがままの不満な感じであった。彼はそのうちに浸りながら、「何を為すべき乎」を考えなかった。「何を為すべからざる乎」は猶更考えなかった。ただ「在る」ことを感じていた。それが堪えられないほど佗びしかった。
 田原さんは身を起して、二階から下りてゆき、妻と子とに言葉を交わし、それから水で顔と頭とを洗ったのである。すると憂欝な感情は消えたが、その後に頭の中に妙にぼんやりしたものが残ったのである。
 田原さんはまた二人の所へ帰って来た。
 其処にはバナナと冷やした牛乳とが出されていた。彼は砂糖の甘い牛乳にバナナをつけて食べた。
「良助はまだ帰って来ないか。」と田原さんは尋ねた。
「まだですが、もう間《ま》もなく帰るでしょう。」
 それから田原さんは二階の書斎に上った。毎日午後に昼寝をして、それから夕食まで書斎に籠ることは、彼の殆んど毎日の日課であった。
 書斎には和洋の書籍が沢山つめこまれた本箱が二つ据えてあって、その中央に紫檀の机が一つあるきりだった。田原さんはその机に向って、時には専門の電気に関する新著を披いたり店の経営に関する考案を廻らしたりすることもあったが、多くは古今の物語り類を耽読したり、机の上に頬杖をついて外を眺めたりした。家政の余裕と店の地盤の強固とは、彼を多く閑散な地位に置いていたのである。
 家は本郷の西片町の高台の外れに在ったので、窓を開け放すと、植物園一帯の高地がすぐ眼の前に展開せられた。その右方に白山の森があり、左方に離れて砲兵工廠の煙筒が聳えていた。田原さんは、或はその静かな森を顧み、或はその渦巻く煤煙を眺めた。そしてその上に、何時も高く拡がっている大空があった。風の日も雨の日もまた晴れた日も、それらの景色は変らなかった。
 でそれらの土地の起伏や、その上に立ち並んだ人家や、森や、煤煙や、大空や、それらのものを一望のうちにじっと見守っている田原さんの心には、いつも同じような穏かな広やかなものが残された。都会も之を鳥瞰すれば、そして安定な心で鳥瞰すれば、それは一の静かな自然であった。
 然し乍ら田原さんは何かしら退屈して居た。退屈は悪い感情である。田原さんもそれを知っていた。で彼は窓の所に立って行って、立ち竝んだ人家の一つ一つに眼を定めてみた。洗濯物の物干台に動いている所もあった。二階の軒先に植木鉢が竝べてある所もあった。枯れかかって黒ずんでいる樹木もあった。その向うに大きい銀杏の樹が二本轟然と聳えていた。
 その時良助は使から帰って来た。彼はすぐ二階に呼ばれた。田原さんは、書生兼下男の地位に在るその少年の才能を非常に愛していた。
 良助は田原さんの用で、神保町の店まで行ったのであった。神保町の店というのは田原さんの父の時代からやっている電気器械の商店だった。
 良助は書斎の入口に、きち
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