耳を澄すと庭の方に当って人の気配がした。誰かが足音を盗んで窺い寄っているらしかった。
 田原さんは起き上って帯をしめ直した。それから暗闇の中で、用心のために戸棚からピストルを取り出して弾丸をこめた。
 彼はそっと雨戸に近寄って、音のしないように静かに一枚戸を開いた。
 重くどんよりと曇った夜であった。庭の中は、仄蒼くぼんやりした明るみが空気の中に在った。透し見ると向うの白く浮き出した庭石の上に、人の影が蹲っていた。
 田原さんは少しも驚きはしなかった。凡てが予期した通りであった。そして彼は頭がはっきりしているのを感じた。恐ろしいほど澄み切ってはっきりしているのを感じた。手のピストルに眼をやると、それは銀色に冷たく光っていた。凡てが恐ろしいほど澄み切っていた。そしてそのままに身洛ち着いていた。静かであった。
 田原さんはじっと人影を見つめた。
 その男は長い間石の上に蹲っていた。それから、袂にマッチを探って、紙巻煙草に火をつけた。煙草の先がぼっと燃えたが、すぐに消えた。それから男は立ち上った。首を垂れながら歩き出したが、五六歩すると何かに躓いたように飛び上った。ばさっという音がした。男は
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