るのだ。」
良助はなお黙っていた。
「先夜湯島に火事があったろう。お前の父はあれを初めから見ていたそうだ。そうして今更に火事を感心していた。」
良助はなお黙っていた。
「それから、夕焼のした晩に酔っぱらうと、丸で火事の中に居るようなものだと云っていた。あたりが真紅になって渦巻くそうだ。」
良助はなお黙っていた。
「お前の父は、酒が飲めなくなると、放火でもするかも知れない。」
その言葉をきくと、良助は急に田原さんの側に寄っていって、黙ってその顔を仰ぎ見た。
田原さんもじっと良助の眼の中を覗き込んだ。そして云った。
「いや誰にも、うっかりした瞬間には放火をしたくなることがあるものだ!」
それは殆んど投げつけるような調子であったが、良助は別に驚きもせず、身|退《じろ》ぎもしなかった。彼はただじっと田原さんの側に立ちつくした。
田原さんはまた一歩歩き出した。すると良助も田原さんに引きずられるようにして一歩運んだ。そして二人は黙々として庭の中を歩き廻った。背の高い口髭の濃い成年の姿と、髪を短く刈った背の低い少年の姿と、二つは物とその影のように相竝んで、庭の植込の間をぐるぐると廻った
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