の下に細い皺を寄せて苦々しい微笑を洩らした。田原さんがその苦笑を人に示すことは極めて稀であった。で重夫も、何か父を苦しめることのように感じて、そのまま口を噤んでしまった。
田原さんはそれから急に散歩に出た。九時すぎに彼は帰って来た。それから一時間許り二階の書斎に上っていた。そしてまた下りて来て此度は庭を歩き廻った。
木の葉一つ揺がない静まり返った夜であったが、庭の中には何処からともなく涼しい空気が流れていた。空には星がきらきら光っていた。軒先に蒼白い光りが流れているのを見ると、月も出ているらしかった。その地上の暗い夜の静けさと、空から洩れる明るみとが、妙に不調和な雰囲気を作って人の心を唆かした。
田原さんは唇をきっと結んで、時々立ち止った。そして空を仰いで肩を聳かしたが、またすぐに植込の向うに見える灯をすかして見たりした。やがて彼は何ということもなく、座敷の方から玄関の方へ歩いていった。
と急に彼は立ち止って瞳を凝らした。玄関の横の四畳半の縁側に黒い人影が佇んでいたのである。それが良助であると分ると、田原さんは初めて声を掛けた。
「良助か。何をしているんだ?」
「旦那様でござい
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