広田はそれきり何にも云えなかった。
 田原さんは立ち上ると、先刻から襖の影で二人の話をきいていたらしい細君が、眼に一杯涙をためてあわてて玄関の式台に田原さんの下駄を揃えた。
 田原さんは玄関でも一度広田を呼んだ。
「僕の云ったことは分ったろうね。それから原口へはつつまず事情を話しておく方がいい。実直な老人だから、話をすればよく分る。ただくれぐれも嘘を云ってはいけない。」
「はい。」と、広田は答えた。
 田原さんはそのまま待っていた俥に乗った。
 その翌日は雪であった。田原さんはわざと店に出かけないで、雪の降るのを書斎から眺めていた。そしてその晩、広田のことを妻と重夫とに話した。それからこうつけ加えた。
「広田は実際、金が必要であったに違いない。ただ物品をまた店に入れるについて無理をしたかも知れないが、それは反って彼のためにいいだろう。」

 その二――
 田原さんの隣りに上坂《うえさか》という家があった。其処の細君としげ[#「しげ」に傍点]子とはいつしか顔馴染になって、夏の夕方など静かな通りで立ちながら話をすることが時々あった。それからまた田原さんの向うへ宇野という人が後に越して来た。
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