。」
 重夫は母にそう云った。
「いえ夜中と云ってもそれは朝の四時か五時頃なんですよ、」としげ[#「しげ」に傍点]子は答えた、「暑くなると朝早く起きる方が身体にいいと云っていられるのですよ。お前さんのように寝坊するよりはね。」
 彼女は微笑んでいた。何事にも穏かな素直な微笑みを洩らすのは彼女の癖であった。いつも善意に、いや寧ろ善意とさえも云えない穏かな気持ちに満ちている彼女は、心持ち痩せてはいたが、常に若々しくまた清らかであった。その切れの長いそして細い眼に生命の余裕を示していた。
「然し、」と重夫は云った、「お父さんのは早く起きられるというよりも眠れないから仕方なしにお起きになるんではないでしょうか。」
「さあねえ、私にはよくお眠りになるように思えるんですがね。何かそんなことを仰言っていられたことがありますか。」
「別に何にも云われはしませんが……。いつでしたか私が夜遅くまで起きて書物を読んでいまして、それから寝ようと思って縁側を通る時に、まだ寝ないのかって室の中から声をおかけになったことがあります。そんなことがよくあるんです。何だかお父さんはいつでも眼が覚めていらるるようなんですが
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