ますか。只今学校から帰って来て復習をすましたので……。」
「ああそうか。下りて来ないか、いい晩だよ。」
 良助は云わるるままに庭下駄をつっかけて下りて来た。そしてそのまま歩き出した。田原さんの側に影のように寄り添って歩いた。二人共何とも云わなかった。
 やがて良助の方から口を開いた。
「今日父がやって参りましたそうでございますが。」
「ああ。」と田原さんは一寸ふり向いた。
「何か云って居りましたでしょうか。また酒を飲んではいませんでございましたか。」
「酔っていたよ。そして人間は心のうちに火を燃さなければいけないと云っていた。」
 良助はその意味を推しかねて黙っていた。
「酒を飲んで心の中の火を燃すんだと云っていた。」
 良助はなお黙っていた。
「お前の父が云うのは真理だ。人間が他の動物より強くなったのは火を燃す方法を知ってからなんだ。そして他の動物より賢くなったのは心の火を燃し初めてからだ。お前はプロメシウスの神話を知っているだろう。天上から火を盗んで来た為にコーカサス山の上に縛られて禿鷹に肝臓を啄まれたというあの話だ。人間は火を燃さなければいけない、然しそのためにまた心に苦悩を覚ゆるのだ。」
 良助はなお黙っていた。
「先夜湯島に火事があったろう。お前の父はあれを初めから見ていたそうだ。そうして今更に火事を感心していた。」
 良助はなお黙っていた。
「それから、夕焼のした晩に酔っぱらうと、丸で火事の中に居るようなものだと云っていた。あたりが真紅になって渦巻くそうだ。」
 良助はなお黙っていた。
「お前の父は、酒が飲めなくなると、放火でもするかも知れない。」
 その言葉をきくと、良助は急に田原さんの側に寄っていって、黙ってその顔を仰ぎ見た。
 田原さんもじっと良助の眼の中を覗き込んだ。そして云った。
「いや誰にも、うっかりした瞬間には放火をしたくなることがあるものだ!」
 それは殆んど投げつけるような調子であったが、良助は別に驚きもせず、身|退《じろ》ぎもしなかった。彼はただじっと田原さんの側に立ちつくした。
 田原さんはまた一歩歩き出した。すると良助も田原さんに引きずられるようにして一歩運んだ。そして二人は黙々として庭の中を歩き廻った。背の高い口髭の濃い成年の姿と、髪を短く刈った背の低い少年の姿と、二つは物とその影のように相竝んで、庭の植込の間をぐるぐると廻った。
 濃い闇がしいんと静まり返りながら、空の仄蒼い反映を漂わしていた。黒い松の向うには、庭石が白く浮出して、芝生の葉末がきらきらと光っていた。
 田原さんはふと何かに喫驚して我に帰ったように立ち止った。そして良助の方へふり返った。
「もう寝るがいい。」
 その声は何処か力が抜けて空洞のような響きをした。
「はい。」と良助は答えた。
 田原さんは其処に良助を残したまま、ずんずん家の中にはいっていった。

     五

 徳蔵は月に三、四回は必ず田原さんの所へやって来た。
 そしてみよ[#「みよ」に傍点]子は毎朝田原さんの家に牛乳を配達して来た。
 牛乳の配達は十二の少女としては可なり収入のある仕事であった。彼女は乳屋から十本余りの牛乳を受けてそれを朝早く配達した。乳屋の方にも客の方にも此の可憐な少女に対する同情があった。然し冬の寒い時など、それは可なり彼女にとって痛々しい仕事であった。耳朶《みみたぶ》は大きく凍傷のために脹れ上り、頬は赤くかじかんでいた。そして手足が氷のように冷え切った。それが春になり夏になると、耳朶は小さく薄くなって赤い血管がすいて見え、頬には幼い色が上って、白い柔かな産毛がかすかに見られた。
 彼女はいつも、勝手元に牛乳を届け空壜を貰うと、兄の姿が見えはしないかと思って其処に暫く佇んだ。彼女の眼は悲しそうに円く輝いていた。そして其処で彼女は時々兄に逢った。
 みよ[#「みよ」に傍点]子の方では別に話すことも持たなかった。否恐らく種々こまかいことを持ってはいたろうけれど、そういう時には心がその方へ向いてはいなかった。良助の方も別に話すこともなかった。二人は黙ってじっと立っていることがよくあった。
 然し特にそんな時に良助は田原さんの眼を恐れていた。一度もそれについて何か云われたり尋ねられたりしたことはなかったのだが、それでも彼は田原さんの眼を恐れた。それは単なる気兼や遠慮ばかりではなかった。彼はいつも田原さんの眼が何処からかじっと自分の方を見守っているような気がした。そしてその眼が自分の心のうちにも在るような気がした。
 良助はよくふいと妹の許を立ち去った。みよ[#「みよ」に傍点]子は其処に置きざりにせられて、じっと兄の後姿を見送り、それから牛乳の壜の籠を取上げ、首垂れながら田原さんの家から出ていった。
 然しみよ[#「みよ」に傍点]子のその悲しみ
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