んはそう云いながら立って行って、何程かの金を紙に包んで、それを徳蔵に与えた。
「いや旦那、これは頂けませんや。」
 そして徳蔵はその包みを縁側に置いた。
「なぜだ? 取っておけばいいじゃないか。」
「なぜでもいけませんや。」
「なにいくらでもないんだから取っておおき。そしてそのうちで何かみよ[#「みよ」に傍点]子に買っていってやるがいい。」
 徳蔵は急に眼を輝かした。
「それじゃ頂きます。みよ[#「みよ」に傍点]は饅頭が好きだから、一つ馬鹿に大きいやつを買っていって喜ばしてやりましょう。……それじゃ旦那、大変お邪魔をしちまいました。」
 徳蔵は丁寧に頭を下げた。それから勝手の方へ廻ってしげ[#「しげ」に傍点]子に挨拶をして、帰って行った。酔もさめたらしく、重い足取りをして歩いていった。
 田原さんはそれから庭に水を撒き、湯にはいり、夕食の膳に向った。然し彼は内心が妙に疲れていた。それも彼自らが称して「最も悪い疲労」と云っていた所の倦怠に似た疲労だった。
 田原さんは心持ち眉を顰めて、そして黙り込んで少ししか食わなかった。始終重夫が自分の方をじろじろ見ているような気がした。
 食後重夫はやさしい調子でこう父に話しかけた。
「今日もいつものように徳蔵に金をやられたんですか。」
「ああ少しくれてやった。」
 田原さんはただそう答えた。声の調子は如何にも落ち附いていた。
「然しああ云うずぼらな奴にいつも黙って金をやると、益々図に乗って来ますよ。」
「なに大丈夫だ。それに私《わし》はだんだん徳蔵の気持ちが分って来るような気がするんだ。」
「お父さんはいつもそんなことばかり仰言るんですけれど、ちっとも物に価値の区別をつけられないんですね。お父さんのはいつも解釈ばかりなんです。それも余りに善意な解釈ばかりなんです。少しも判断ということをなさらないんです。」
 哲学に趣味を有し高等学校の独法科に通っている重夫にとっては、凡てのことに判断と裁決とを要するのであった。彼の持論はこうであった。単なる解釈は社会を向上させはしない。社会を向上させるには判断と裁決とを要する。其処から彼は時として、尊敬する父に対しても抗議を提出することがあった。彼の眼はいつも若々しく輝いていた。頬には紅い血が流れていた。凡てにぶつかってゆく力が彼のうちに充ちていた。
 田原さんは重夫の方へちらと一瞥を与えて、それから静かに答えた。
「判断は理解の後に来るものだ。然しそんな抽象的な議論はお前達のような若い者に譲るとしよう。だがお前にはまだ人間というものがはっきり分ってはいない。……何だったかね、そうそう徳蔵のことだ。妻を失ったことが徳蔵にどんな打撃を与えたか、お前には分るまい。お前も知ってる通り、徳蔵はこの家から出て後ずっと砲兵工廠に働いていた。彼の妻は家の中で内職をしていた。そして貧しい中に良助とみよ[#「みよ」に傍点]子とを育てていたんだ。そのうちに突然妻が死んだ。良助は今の通り家に来ることになった。徳蔵はその時から酒を飲み出したんだ。今日も彼は云っていた。『人間には心の中に火を燃すことが大事だ。私等のような者は酒で火を燃すより外仕方がない。』そのことをよく考えてごらん。今分らなくても、お前にもいつかそのことがはっきり分る時が来る。」
 重夫は珍らしい父の雄弁にじっと耳を傾けていたが、やがて云った。
「私にも大体は分ります。然しただ分っただけで、その先をどうしようということがなくちゃ、何にもならないじゃありませんか。」
「何にもならないと云えばそれまでだがね……。」
 その時田原さんは、眼の下に細い皺を寄せて苦々しい微笑を洩らした。田原さんがその苦笑を人に示すことは極めて稀であった。で重夫も、何か父を苦しめることのように感じて、そのまま口を噤んでしまった。
 田原さんはそれから急に散歩に出た。九時すぎに彼は帰って来た。それから一時間許り二階の書斎に上っていた。そしてまた下りて来て此度は庭を歩き廻った。
 木の葉一つ揺がない静まり返った夜であったが、庭の中には何処からともなく涼しい空気が流れていた。空には星がきらきら光っていた。軒先に蒼白い光りが流れているのを見ると、月も出ているらしかった。その地上の暗い夜の静けさと、空から洩れる明るみとが、妙に不調和な雰囲気を作って人の心を唆かした。
 田原さんは唇をきっと結んで、時々立ち止った。そして空を仰いで肩を聳かしたが、またすぐに植込の向うに見える灯をすかして見たりした。やがて彼は何ということもなく、座敷の方から玄関の方へ歩いていった。
 と急に彼は立ち止って瞳を凝らした。玄関の横の四畳半の縁側に黒い人影が佇んでいたのである。それが良助であると分ると、田原さんは初めて声を掛けた。
「良助か。何をしているんだ?」
「旦那様でござい
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