こそ本当に死んじまいまさあね。」
田原さんは何とも答えないで、じっと徳蔵の顔を見つめた。日に焼けた顔が酒のために赤く熱っている。濃い眉毛と、低く頑丈な鼻と、厚い唇、それらのものが、夏の炎熱と酒の温気とに燃えてるようである。
「それにね旦那、」と徳蔵は続けた、「外はこの通り暑さに燃えてるんだ、身体の中だって燃やさなけりゃあ調子が取れねえというもんでさあ。それにまた寒けりゃ寒いでね、内だけでも燃やしておかなけりゃやりきれねえんですよ。ですがね、私はよく覚えてまさあ。『酒は飲んでも構わない。死んではいけない。』それもね、良助に云わせると生意気に聞えるが、旦那の口から出たんだとすりゃあ、なるほどいい言葉だ。然し旦那、酒を止す方が早く死んじまいますぜ。火が燃えなくっちゃおしまいだ。燃えてるうちは大丈夫生きてるんだ。死人は冷っこいものですぜ。石のようだ。私はね、それは火が燃えてねえからだと思うんですがね。……ねえ旦那、先夜湯島に火事があったでしょう。豪気なもんでしたぜ。私は真先に駈け附けてよく見てやったですが、真紅な火がごーうとうなって、空まで燃えていましたぜ。あたり近所が皆真赤でさあ。風が吹いて真赤な火が渦巻いてるんだ。あんな威勢のいいものはありゃしねえや。」そして徳蔵は一寸首を傾げて考えたが、また云い続けた。「旦那は夕焼のした晩に酔っぱらったことがあるんですか。火事という奴はあれと丸で同じでさあ。あたりのものがぐるぐる廻ってるんだ。それがぱっと真赤になってるんだ。空に真赤な夕焼がしているんですぜ。空も地面も真赤になって渦巻いてるんだ。そして一度に燃え上ってる。どうすることも出来やしねえ。腕っ節の続く限り何にでもぶつかってゆくんだ。戦争なんかもあんなものかも知れねえ。」
徳蔵は一人で饒舌ってしまうと、急に口を噤んで、先刻出されたままの茶をぐっと飲み干した。それから彼はふと煽風器の方へ眼を留めた。
「なるほどいい風が来ますね。だが、どうも生温《なまあったか》い風ですね旦那。この風を冷たくする工夫はつかねえものですかね。」
「そうだね。」
田原さんは気の無さそうな返事をした。そして紙巻煙草を一本取ってそれに火をつけ、また一本徳蔵にも取ってやった。
「今日は造兵の方は休みなのか。」と田原さんは別のことを云った。
「なに一寸骨休めですよ。あの仕事も随分骨が折れますよ。働きづめで、一服する隙もありませんからね。」
「それは骨も折れるだろうが、そう休んでいてはみよ[#「みよ」に傍点]子が困りはしないかね。」
「なあに、大丈夫でさあ。その代りよく可愛がってやりますんだ。あれも不憫な奴ですからね。よく膝の上に抱っこして子守唄をうたってやりますよ。するとね、眠ろうとはしないで、噴き出してしまうんです。私もね、一緒になって笑うんです。何しろもう十二になるんですからね。然し悧口ですよ。私が造兵から帰って来て寝ようとすると、肩を揉んでくれますよ。」
「然しよく怒鳴りつけることもあるんだろう。」
「それはね、ただ酒がねえ時でさあ。然し不思議なもんですよ。酒が無くって怒鳴り散らすと、丁度酒を飲んだような気持ちになりますんだ。心が煮えくり返るようでね。そんな時に私は膝に抱っこしてやるんですがね、そして子守唄をうたうんです。すると大抵は二人で笑い出すんですがね。どうかすると奴《やっこ》さん泣き出しちまうんです。私もね、つい鼻を啜るんですがね。……いや火を燃すに限るですよ。泣くなんて余りいい気持ちのものじゃねえ。どうも泣くのはいけねえや。私はこう思いますがね、人間てものは始終火を燃していなけりゃいけねえと。」
「然しね、酒で火を燃さなくても、他のもので燃した方がいいよ。」
「そりゃ、旦那みたようだと、そういきましょうがね。私等には、うまくいかねえですよ。何しろ裸一貫ですからね。」
田原さんはじっと徳蔵の顔を見つめた。
「お前は家内を亡くしたのがいけなかったんだね。」
徳蔵はその言葉をきくと、急に腰を立ちかけたが、またそのまま身を屈めた。
「旦那、死んだ奴のことは余り考えるものじゃありませんね。」
その言葉は田原さんには非難の言のように響いた。で彼は何とも云わないで徳蔵の方をじっと見やると、徳蔵は殆んど無感覚のような没表情な顔をして、ぼんやり視線を向うの庭石に定めていた。
庭はもう一面に日が陰っていたが、傾いた太陽の光りを含んでぎらぎらと輝いている空からは、炎熱の余光が地上に降り濺いで、物の隅々まで影の無い明るみを作っていた。二人はそれきり黙ったまま、ぼんやり庭の方を眺めた。風も無い庭の木立が、如何にも静まり返っていた。
その時女中が田原さんに、お湯の沸いたことを知らして来た。
徳蔵はその時急に立ち上って帰ろうとした。
「おい一寸待ってくれ。」
田原さ
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