ていられたよ、酒を飲めば世の中はおしまいだって。」
「酒を飲めば世の中はおしまいだと?」
「ああ、」と答えたが、良助は一寸考えた。それからまた云った。「父さんは死にたいのかね。」
「何を云うんだ箆棒な。誰が死にてえ奴があるもんか。」
「でも何だよ、酒を飲み過すのは自殺をすると同じことだそうだ。度を過すと酒は屹度人の命を縮めるそうだ。それからまた実際死ななくても、始終酒ばかり飲んで何にも出来ないようになるのは、死んだも同じだそうだ。旦那様がよく云ってくれってそう仰言っていらしたよ。父さんに酒を飲むなとは云わないが、良助とみよ[#「みよ」に傍点]とが大きくならないうちは決して死んではいけないって。」
徳蔵は杯を下に置いて、じっと良助の顔を見つめた。
「何だ俺に死んではいけないって……。悪い洒落を云うもんじゃねえ。こんなにぴんぴんしていらあね。」
「だからよ、生きながら死ぬなって仰言ったんだ。ただそれだけ分っていればいくら酒は飲んだって構わないんだそうだ。」
「なるほど旦那はうまいことを云うもんだ。」
徳蔵はそう云ったが、一寸小首を傾げて、それからまた杯を手にした。
良助は云うだけのことを云ったという風ですぐに立ち上った。
「何だもう行くのか。」
「学校が遅くなるから。」
「そうか。まあしっかり勉強するがいい。」そう云って徳蔵は一寸下唇を舌で嘗めて、じっと良助の方を見やった。
みよ[#「みよ」に傍点]子が門口まで良助を送って出た。
「兄さんまたお出でよ。」
「ああまた来るがね、父さんはいつもやかましいのかい。」
「いえそうでもないけれど……。」そして彼女はそのまま俯向いてしまった。
「僕は学校が遅くなるから、それでは行くよ。今度はゆっくり来ようね。」
みよ[#「みよ」に傍点]子は黙って首肯いた。そして良助の後姿を見えなくなるまで見送っていた。
外はまだ薄明るかったが、物の輪廓がぼんやりと暮れかかって、瓦斯の灯が仄白くともっていた。良助は何か考えに沈んだように地面に視線を落したまま足を早めた。夜学の初まる七時はもう少し過ぎていた。
彼の心は淋しい不安なものに囚われていた。未来が余りに漠然としていた。現在のうちに余りに心苦しいものが在った。ただ田原さんが居る以上は何にも心配するものはなかった。然しそのことが、彼に漠然とした不安と心苦しさと物足りなさとを与えた。彼はその中でぼんやりと広い社会というようなものを心に浮べて、そして涙ぐまるるような窮屈なような感情を覚えた。
四
良助が弓町の家を訪ねた後四、五日して、徳蔵は田原さんの家にやって来た。
彼はいつものように裏口の方から廻って来て、「今日は、」と声をかけた。
其処に丁度居合したしげ[#「しげ」に傍点]子はすぐに徳蔵の姿を見つけた。
「おや徳蔵ですか。この頃暫く姿を見せなかったではないかえ。」
「へへへ大変御無沙汰をしまして。」
「今日は造兵の方はお休みなの?……おや、大変な景気だねえ、昼間から赤い顔をして。」
「なに奥様、余り不景気なんだから一寸その景気附けに飲《や》ったんですよ。所で旦那はお家で。」
「ああ、あちらへ廻ってごらん。」
それで徳蔵は危なそうな足取りで庭から座敷の縁側の方へ廻った。
田原さんは、その時煽風器の風に身を吹かせて縁側に屈んでいた。
「やあ徳蔵か、どうだこの頃は。」
「へへへ相変らずでどうも……。」
「相変らず景気がいいんだな。」
「なに一寸景気附けですよ。お蔭で先達ては久しぶりに溜飲をさげやして、今日はそのお礼に出ましたような訳で。」
「なに礼なんかに来なくてもいいさ。あれは良助のために祝ってやったんだから。お前もいい息子を持って仕合せだね。良助は今に偉い者になるぞ。」
「本当ですか旦那。良助は偉いですかね。」
「ああ偉いとも。だからお前も少ししっかりしなくちゃいけない。何だろうな、その調子ではもう先日《こないだ》のものは飲んでしまったろうな。」
「へへへついどうも……。」
「まあ飲むのもいいがね、あの時良助は何か云いはしなかったか。」
「ええ云いましたよ、偉いことを云ったです。ええと、『酒は飲んでも構わない、ただ死んではいけない。』そして……私はどうも覚えが悪いんで外のことは忘れっちまったが、その言葉だけはちゃんと覚えてるんだ。旦那もうまいこと良助に教えたもんだと、つくづく感心しやしてね……。」
「それで?」
「一つ酒をやめてやろうと決心したんですがね。」
「うまくいかないのか。」
「そうだ、うまくいかねえんですよ。第一うまくいく道理がねえじゃありませんか。酒でも飲まなけりゃ身体のうちに火が無くなってしまいまさあね。私はね、誰かにきいたことがあるんですよ。人間に一番大事なのは身体のうちの火だってね。その火を消しちゃあそれ
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