。妹のみよ[#「みよ」に傍点]子はもう食事を終えてその側に青い顔をしてじっと坐っていた。二人共執拗に黙り込んでいた。また何かが起ったのに違いなかった。恐らく父は酒の無いのを幼いみよ[#「みよ」に傍点]子に怒鳴りつけたのであろう。そして酒に酔っていない彼は、自分と自分の言葉に不快になって、黙り込んでしまったのであろう。
 良助は思い切って家の中にはいった。
「おや兄さんが……。」そうみよ[#「みよ」に傍点]子は大きい声を出してすぐに立って来た。
「なに良助か。」
 徳蔵はそう云って腰を立てようとしたが、またどかりと坐り込んでしまった。そして急に睥めるような眼附をしながら云った。
「上れよ。」
 其処に学校の包みを置いてきちんと膝を折った良助の姿を、徳蔵はじろじろ見やった。
「どうしたんだ。」と彼はまた云った。良助が来たことは彼には全く意外であったらしい。
 良助は黙って懐から金の封筒を取り出して父の前に置いた。
「旦那様からこれを父《とう》さんにやってくれと云われたから、学校の途中に一寸寄ったんだよ。」
 徳蔵は封筒を取り上げて中を披いてみた。中には一円紙幣が五枚はいっていた。彼はそれを見ると口をぼんやりうち開いたまま、じっと良助の顔を見つめた。
「それはね、」と良助は云った、「旦那様が僕に下すったんだよ。学校で特待生になったからその褒美に下すったんだ。そして、お前がいる時は金は家で出してやるからこれは父さんの所へ持ってゆけと云われたので、持って来た。父さんの自由に使っていいんだよ。」
 徳蔵は暫く何とも云わなかったが、突然大きい声を出して云った。
「偉い!」
 それから彼は急にその紙幣を一枚みよ[#「みよ」に傍点]子の前に投り出した。
「みよ[#「みよ」に傍点]、すぐに酒を一升買ってこい。いいか一升だよ。それから※[#「魚+昜」、163−下−11]を二枚。分ったか。早くするんだ、駈けて行ってくるんだぞ。」
 みよ[#「みよ」に傍点]子は云わるるままに急いで表にかけ出していった。
 みよ[#「みよ」に傍点]子が出て行った後に、徳蔵は一寸何やら考えるような風で首を傾げていたが、自分と自分の心に向って云うかのように口を開いた。
「偉い。お前《めえ》が特待生になったんだと。それで旦那がお前に褒美の金をくれた。なるほど。金は家で出してやる。これは親父の所へ持ってゆけ……。さすが旦那は偉いや。お前も偉いや。俺もな、今じゃ飲んだくれだが、これで旦那のためには随分働いたもんだ。」
「よく旦那様は父さんのことを云っていられるよ。そして僕にも大変よくして下さるんだ。しっかり勉強しなけりゃいけないってよく云って下さるんだよ。」
「そうだ、若い時に勉強しなけりゃいけねえ。お前を奉公に上げる時に、屹度良助は立派な人間に育ててやると旦那は仰言ったんだ。それから俺が家に帰る時にな、もう俥夫は抱えないからこれはお前にやるってんで、俥を貰って来たんだ。素敵なものだったぜ。売り飛したら二十両だ。……何だろう、今じゃ旦那は毎日電車で店に通ってるんだろうな。」
「ああ電車だよ。」
「そうだねえ……。」徳蔵はそう云いかけたが急に口を噤んでしまった。そして何やら考え込んでいるらしかった。
 みよ[#「みよ」に傍点]子が重そうにして徳利を抱え※[#「魚+昜」、164−上−8]を下げて帰って来ると、徳蔵は急は眼を輝かした。
「どれ。」そう云って彼は立ち上った。それから自分で火鉢の火をかき立てて※[#「魚+昜」、164−上−11]をあぶった。
「早く七輪で酒の燗をしな。」と彼はみよ[#「みよ」に傍点]子に怒鳴った。
 然し徳蔵はすぐにまた燗をするのを止めさした。そして冷酒のままそれを餉台の上に置いた。
「お前は、」と彼は良助の方へ向いて云った、「学校があるんだったな。ゆっくりしちゃいけねえんだろう。いいから早く此処へ来な。これは祝いの酒だ。特待生になったんだね。一杯飲むがいい。景気をつけなくちゃいけねえ。さあ一杯飲みなったら……。」
「僕は酒は飲めないんだよ。」と良助は答えた。
「なに飲めない?……ああそうか。学校へ行ってるうちは飲まないがいいや。脳に悪いんだな。では※[#「魚+昜」、164−上−21]でも食うがいい。※[#「魚+昜」、164−上−21]は目出度え肴なんだ。おいみよ[#「みよ」に傍点]、お前も食えよ。」
 良助はそれで※[#「魚+昜」、164−上−23]をつまんだ。徳蔵は、冷酒を貪るようにして飲んだ。
 やがて良助は云い出した。
「父さんは毎晩酒を飲むのかい。」
「馬鹿なことを云っちゃいけねえ。飲みてえのは毎晩飲みてえんだが、誰も飲ましてくれねえやね。」
「でもよく飲むんだろう。」
「当り前だ。酒も飲めなくなったら世の中はおしまいだ。」
「だが旦那様もそう云っ
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