は、しげ[#「しげ」に傍点]子や重夫の親切で幾分慰められた。しげ[#「しげ」に傍点]子はよくやさしい言葉をかけてくれた。重夫は時々菓子などをくれたり、小遣銭を与えたりした。そして月末の勘定の時、みよ[#「みよ」に傍点]子はいつも釣銭をそのままに貰っていった。そういう時みよ[#「みよ」に傍点]子は、涙ぐんだように眼を円く見開いて相手の顔をじっと仰いだ。そして黙ってお辞儀をした。
「悪に対しては常に抵抗しなければいけない、そして善は常に保護しなければいけない。」それが重夫の信条であった。そして彼にとっては、徳蔵は悪であり、みよ[#「みよ」に傍点]子は善であった。
 重夫は屡々みよ[#「みよ」に傍点]子のことを父に話した。
「この次には小遣を少しやりましょう。」と彼は話の終りによく云った。
「それがいい。」と田原さんは答えた。
 然しそんな時田原さんはいつも重夫から眼を外らして、そして苛ら苛らしたような表情を示した。
 心持ち眉根を寄せて半ば口を開いているその横顔は、或る不安なものを重夫の心に伝えた。
 重夫は心のうちで思った。「父は常に悪に対する善意の解釈のみを事としている。善そのものは父の何等の興味をも引かないんだ。」
 重夫のその心持ちが田原さんにははっきり分っていた。そして田原さんは益々苦々しくなった。
 田原さんにとっては重夫の考えている問題は問題ではなかった。それでは何が問題か? それには何も答えられなかった。田原さんは書斎に上ってみたり、散歩をしてみたり、それからまた毎日午前中は神保町の店に通った。そして何だかじっとして居れないような気になっていたが、そのままにまた彼自身も彼の日々も至って静かで落ち附いていた。
 或日田原さんは妙に腹を立てていた。夕方まで昼寝から覚めないで、急に食事の時になって起されたからであった。腹を立てているというのが悪ければ、不愉快な気分に満ちていたと云ってもいいだろう。彼は殆んど一言も口を利かないで夕食を済ました。
 なぜ不愉快な気分に満ちたか? それは彼自身にもはっきり分らなかった。然し兎に角[#「兎に角」は底本では「免に角」]田原さんはその日、白日のうちにそして静かな夢幻のうちに自然に眠りから醒めてゆくかの心の置場の無いような寂寥と憂愁とを、ゆっくり感ずるの隙が無かったのは事実であった。
「あなた、あなた、あのもう夕御飯も出来ていますから……。」しげ[#「しげ」に傍点]子はそう云って田原さんを揺り起した。
 で田原さんは急に、微睡からよび覚された。そして彼が昼寝をしたのは午後の真昼であったが、起きた時は既に夕暮の影が迫っていた。彼の心理の過程のうちに何処か隙間があった。
 食後彼は縁側に屈んで庭を眺めた。庭にはいつも彼がするように水が撒いてあった。木の葉に水の掛かった有様から庭石の凹みに水がたまっている工合まで、いつも彼自身がやるのと少しも違っていなかった。
 田原さんは、夜学に通うため仕度をして出て来た良助に云った。
「お前が水を撒いたのか。」
「はい。」と良助は答えた。
「よく私がいつもやる通りに覚えているね。」
「はい、何でも旦那様のやらるることを覚えておかなければいけないと思って、平素から注意して居りますので。」
「それでは私が万事お前の理想となるわけだね。」
「…………」
 田原さんはその時、自分の云ったその言葉に妙に不安になった。自分は始終良助からつき纒われている、というような漠然とした感じを懐いたのである。そしてその感じはどうすることも出来ないようなものだった。
 然し顧みて、夜学の包みを持ち短く袴をはいているその少年の姿を見ると、田原さんは急に何だか馬鹿馬鹿しくなった。敏感な頭のいい少年だったが、それはやはり少年だった。
「もう時間だろう、出かけたらどうだ。」
 ややあって田原さんはそう云った。
「はい別に御用はございませんですか。」
「ああ何もないから。」
「それでは行って参ります。」
 良助はそう云って、約三十秒許り田原さんの側にじっと立っていた。それから急いで家を出た。
 田原さんもその後で散歩に出た。
 二時間許りして彼は帰って来た。そしてすぐに重夫の所へ行った。
「先刻徳蔵に逢ったよ。」と田原さんは云った。
「そうですか。」と重夫は気の無さそうな返事をした。
「大変真面目な顔をしていた。そしてこんなことを云うんだ、『余りお世話になってるんで、旦那の家へはどうも白面《しらふ》では伺い悪うござんして。』とね。あれで酒を飲まなければ正直ないい奴だ。」
「お父さんが、酒を飲めるようにしておやりになるからいけないんですよ。」
「なにそればかりじゃない。それに、彼に急に酒をやめさせると却っていけないかも知れないんだ。」
「そんなことを云ったらきりがないじゃありませんか。」

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