頭の中に妙にぼんやりしたものが残ったのである。
 田原さんはまた二人の所へ帰って来た。
 其処にはバナナと冷やした牛乳とが出されていた。彼は砂糖の甘い牛乳にバナナをつけて食べた。
「良助はまだ帰って来ないか。」と田原さんは尋ねた。
「まだですが、もう間《ま》もなく帰るでしょう。」
 それから田原さんは二階の書斎に上った。毎日午後に昼寝をして、それから夕食まで書斎に籠ることは、彼の殆んど毎日の日課であった。
 書斎には和洋の書籍が沢山つめこまれた本箱が二つ据えてあって、その中央に紫檀の机が一つあるきりだった。田原さんはその机に向って、時には専門の電気に関する新著を披いたり店の経営に関する考案を廻らしたりすることもあったが、多くは古今の物語り類を耽読したり、机の上に頬杖をついて外を眺めたりした。家政の余裕と店の地盤の強固とは、彼を多く閑散な地位に置いていたのである。
 家は本郷の西片町の高台の外れに在ったので、窓を開け放すと、植物園一帯の高地がすぐ眼の前に展開せられた。その右方に白山の森があり、左方に離れて砲兵工廠の煙筒が聳えていた。田原さんは、或はその静かな森を顧み、或はその渦巻く煤煙を眺めた。そしてその上に、何時も高く拡がっている大空があった。風の日も雨の日もまた晴れた日も、それらの景色は変らなかった。
 でそれらの土地の起伏や、その上に立ち並んだ人家や、森や、煤煙や、大空や、それらのものを一望のうちにじっと見守っている田原さんの心には、いつも同じような穏かな広やかなものが残された。都会も之を鳥瞰すれば、そして安定な心で鳥瞰すれば、それは一の静かな自然であった。
 然し乍ら田原さんは何かしら退屈して居た。退屈は悪い感情である。田原さんもそれを知っていた。で彼は窓の所に立って行って、立ち竝んだ人家の一つ一つに眼を定めてみた。洗濯物の物干台に動いている所もあった。二階の軒先に植木鉢が竝べてある所もあった。枯れかかって黒ずんでいる樹木もあった。その向うに大きい銀杏の樹が二本轟然と聳えていた。
 その時良助は使から帰って来た。彼はすぐ二階に呼ばれた。田原さんは、書生兼下男の地位に在るその少年の才能を非常に愛していた。
 良助は田原さんの用で、神保町の店まで行ったのであった。神保町の店というのは田原さんの父の時代からやっている電気器械の商店だった。
 良助は書斎の入口に、きち
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