心にふうわりと被さって来た。それは単なる情緒ではなかった。淋しい佗びしいそして頼り無いようなものが、彼の心の上に煙のようにふうわりと投げかけられたのである。で彼は本能的にそれを脱しようとして眼を開いた。然し彼はまだその時まで半ば眠っていたのである。そして彼が脱しようとしたその寂寥たる或物が、また引き入れるようにして彼の眼瞼を閉じさした。彼は全身|微睡《まどろ》みながら、覚めかかった心をじっと、その或物へ集中した。じっとしているに堪えられないような、それでもじっとしていなければならないような、荒凉たる感じが彼のうちにその時湧いて来た。それは、空虚な柔い擽ったいような苦悩であった。そしてそれに身をうち任していると彼はそよそよと微風が自分の上を流れてゆくのを感じた。その時には彼は再び眼を開いていた。開け放した二階の室から、庭の木立の梢が見える。緑葉がちらちらと動いている。その向うに青い空が在る。空の中にぽつりとち切れた雲が一片浮んでいたが、それがすぐに蒼空の奥に消え去ってしまう。それが如何にも静かである。静かでありながら如何にも雄大な推移である。雄大な推移でありながら如何にも頼り無く佗びしい。雲の消え去った大空から、生温い微風が流れてくる……。
彼は毛布を足先ではねのけて、枕の上に半身を起してみた。それが非常な努力に感じられた。そして両手を伸すと共に、大きく欠伸を一つした。その欠伸が彼にはっきり胸の空虚を感じさした。何かが自分のうちから掴み去られたがようであった。全身の筋肉がぐたりとしていた。それが如何にも静かでそして頼り無かった。その時彼の心のうちに懶い憂欝が濃く澱んで来た。
彼が見たのは、大自然のうちに流るる静かな推移でもなかった。大空の下に置かれた人生の卑小でもなかった。然しあるがままの生の懶さ淋しさであった。それは、「今日もまた暮れた、明日もまた明けるであろう、」という感情と似たものであった。その感情の底にしみ込んでくる在るがままの不満な感じであった。彼はそのうちに浸りながら、「何を為すべき乎」を考えなかった。「何を為すべからざる乎」は猶更考えなかった。ただ「在る」ことを感じていた。それが堪えられないほど佗びしかった。
田原さんは身を起して、二階から下りてゆき、妻と子とに言葉を交わし、それから水で顔と頭とを洗ったのである。すると憂欝な感情は消えたが、その後に
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