いや或る習慣が出来たり無くなったりするには一定の時期がいるものだ。」
「それでもお父さんは余りに寛大すぎますよ。」
「そう……。」
田原さんは何やら云いかけたが、そのままぷつりと言葉を切ってしまった。それで重夫もそれきり口を噤んだ。
その晩田原さんは遅くまで眠れなかった。室の中が、そして蚊帳の中が妙に暑苦しかったので、彼はそっと起き出て、縁側の雨戸を開いた。
星明りの、そして空気が澄み切った静かな晩だった。田原さんは庭に下りて行って大きく胸を開いて呼吸をした。それから急に庭の隅々を透し見た。何だか人の気配がしたようであった。然し其処には誰も居なかった。ただ植込の下影が、脅かすように真暗であった。
田原さんは庭の中を歩き出した。そして暫くすると、彼はいつのまにか、良助が寝ている玄関横の四畳半の戸口に近寄っていた。そして彼はその戸口から耳を澄した。戸は閉め切ったままで、中からは何の物音もしなかった。
時間が静かに過ぎていった。
と突然田原さんは一歩退った。そして急に我に返ったようにあたりを見廻した。頭が硝子のように恐ろしくはっきりしているのを彼は感じた。それから何かに対して身構えるかのように、彼は両肩を後ろに引いてしかと拳を握りしめた。
彼はそのままの姿勢で、また座敷の庭の方へ戻って来た。それは上半身だけが物に慴えて硬ばったようなおかしな姿だった。先刻開け放したままの戸が一枚、ぽかりと口を開いていた。彼はずっと其処にはいって行った。
六
八月のじりじりと輝りつける或る日の午後、一群の野次馬が一人の巡査と泥酔の男との後について、ぞろぞろと田原さんの家の前までやって来た。炎熱と埃と汗の匂いが、一時にその閑静な通りをざわつかした。然し誰も皆黙っていた。黙って額の汗を拭いて、また酔漢《よいどれ》の方を覗いた。酔漢は巡査に片手を取られたままのそりのそり歩いていった。黒眼が上眼瞼に引きつけて、じっと前方を睥んでいるようであった。
二人は田原さんの門の中にはいった。野次馬の一群は其処にとり残されて、やはり黙ったまま門内を覗き込んだ。そしてやがて二、三人ずつ散っていった。
巡査は玄関に立って、其処に出て来た田原さんに次のようなことを云った。
「この男が大道にいきなり坐ってしまったのです。いくら叱っても賺しても立ちません。泥酔してその上暑い日に輝らされた
前へ
次へ
全30ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング