いますから……。」しげ[#「しげ」に傍点]子はそう云って田原さんを揺り起した。
で田原さんは急に、微睡からよび覚された。そして彼が昼寝をしたのは午後の真昼であったが、起きた時は既に夕暮の影が迫っていた。彼の心理の過程のうちに何処か隙間があった。
食後彼は縁側に屈んで庭を眺めた。庭にはいつも彼がするように水が撒いてあった。木の葉に水の掛かった有様から庭石の凹みに水がたまっている工合まで、いつも彼自身がやるのと少しも違っていなかった。
田原さんは、夜学に通うため仕度をして出て来た良助に云った。
「お前が水を撒いたのか。」
「はい。」と良助は答えた。
「よく私がいつもやる通りに覚えているね。」
「はい、何でも旦那様のやらるることを覚えておかなければいけないと思って、平素から注意して居りますので。」
「それでは私が万事お前の理想となるわけだね。」
「…………」
田原さんはその時、自分の云ったその言葉に妙に不安になった。自分は始終良助からつき纒われている、というような漠然とした感じを懐いたのである。そしてその感じはどうすることも出来ないようなものだった。
然し顧みて、夜学の包みを持ち短く袴をはいているその少年の姿を見ると、田原さんは急に何だか馬鹿馬鹿しくなった。敏感な頭のいい少年だったが、それはやはり少年だった。
「もう時間だろう、出かけたらどうだ。」
ややあって田原さんはそう云った。
「はい別に御用はございませんですか。」
「ああ何もないから。」
「それでは行って参ります。」
良助はそう云って、約三十秒許り田原さんの側にじっと立っていた。それから急いで家を出た。
田原さんもその後で散歩に出た。
二時間許りして彼は帰って来た。そしてすぐに重夫の所へ行った。
「先刻徳蔵に逢ったよ。」と田原さんは云った。
「そうですか。」と重夫は気の無さそうな返事をした。
「大変真面目な顔をしていた。そしてこんなことを云うんだ、『余りお世話になってるんで、旦那の家へはどうも白面《しらふ》では伺い悪うござんして。』とね。あれで酒を飲まなければ正直ないい奴だ。」
「お父さんが、酒を飲めるようにしておやりになるからいけないんですよ。」
「なにそればかりじゃない。それに、彼に急に酒をやめさせると却っていけないかも知れないんだ。」
「そんなことを云ったらきりがないじゃありませんか。」
「
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