は、しげ[#「しげ」に傍点]子や重夫の親切で幾分慰められた。しげ[#「しげ」に傍点]子はよくやさしい言葉をかけてくれた。重夫は時々菓子などをくれたり、小遣銭を与えたりした。そして月末の勘定の時、みよ[#「みよ」に傍点]子はいつも釣銭をそのままに貰っていった。そういう時みよ[#「みよ」に傍点]子は、涙ぐんだように眼を円く見開いて相手の顔をじっと仰いだ。そして黙ってお辞儀をした。
「悪に対しては常に抵抗しなければいけない、そして善は常に保護しなければいけない。」それが重夫の信条であった。そして彼にとっては、徳蔵は悪であり、みよ[#「みよ」に傍点]子は善であった。
 重夫は屡々みよ[#「みよ」に傍点]子のことを父に話した。
「この次には小遣を少しやりましょう。」と彼は話の終りによく云った。
「それがいい。」と田原さんは答えた。
 然しそんな時田原さんはいつも重夫から眼を外らして、そして苛ら苛らしたような表情を示した。
 心持ち眉根を寄せて半ば口を開いているその横顔は、或る不安なものを重夫の心に伝えた。
 重夫は心のうちで思った。「父は常に悪に対する善意の解釈のみを事としている。善そのものは父の何等の興味をも引かないんだ。」
 重夫のその心持ちが田原さんにははっきり分っていた。そして田原さんは益々苦々しくなった。
 田原さんにとっては重夫の考えている問題は問題ではなかった。それでは何が問題か? それには何も答えられなかった。田原さんは書斎に上ってみたり、散歩をしてみたり、それからまた毎日午前中は神保町の店に通った。そして何だかじっとして居れないような気になっていたが、そのままにまた彼自身も彼の日々も至って静かで落ち附いていた。
 或日田原さんは妙に腹を立てていた。夕方まで昼寝から覚めないで、急に食事の時になって起されたからであった。腹を立てているというのが悪ければ、不愉快な気分に満ちていたと云ってもいいだろう。彼は殆んど一言も口を利かないで夕食を済ました。
 なぜ不愉快な気分に満ちたか? それは彼自身にもはっきり分らなかった。然し兎に角[#「兎に角」は底本では「免に角」]田原さんはその日、白日のうちにそして静かな夢幻のうちに自然に眠りから醒めてゆくかの心の置場の無いような寂寥と憂愁とを、ゆっくり感ずるの隙が無かったのは事実であった。
「あなた、あなた、あのもう夕御飯も出来て
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