濃い闇がしいんと静まり返りながら、空の仄蒼い反映を漂わしていた。黒い松の向うには、庭石が白く浮出して、芝生の葉末がきらきらと光っていた。
 田原さんはふと何かに喫驚して我に帰ったように立ち止った。そして良助の方へふり返った。
「もう寝るがいい。」
 その声は何処か力が抜けて空洞のような響きをした。
「はい。」と良助は答えた。
 田原さんは其処に良助を残したまま、ずんずん家の中にはいっていった。

     五

 徳蔵は月に三、四回は必ず田原さんの所へやって来た。
 そしてみよ[#「みよ」に傍点]子は毎朝田原さんの家に牛乳を配達して来た。
 牛乳の配達は十二の少女としては可なり収入のある仕事であった。彼女は乳屋から十本余りの牛乳を受けてそれを朝早く配達した。乳屋の方にも客の方にも此の可憐な少女に対する同情があった。然し冬の寒い時など、それは可なり彼女にとって痛々しい仕事であった。耳朶《みみたぶ》は大きく凍傷のために脹れ上り、頬は赤くかじかんでいた。そして手足が氷のように冷え切った。それが春になり夏になると、耳朶は小さく薄くなって赤い血管がすいて見え、頬には幼い色が上って、白い柔かな産毛がかすかに見られた。
 彼女はいつも、勝手元に牛乳を届け空壜を貰うと、兄の姿が見えはしないかと思って其処に暫く佇んだ。彼女の眼は悲しそうに円く輝いていた。そして其処で彼女は時々兄に逢った。
 みよ[#「みよ」に傍点]子の方では別に話すことも持たなかった。否恐らく種々こまかいことを持ってはいたろうけれど、そういう時には心がその方へ向いてはいなかった。良助の方も別に話すこともなかった。二人は黙ってじっと立っていることがよくあった。
 然し特にそんな時に良助は田原さんの眼を恐れていた。一度もそれについて何か云われたり尋ねられたりしたことはなかったのだが、それでも彼は田原さんの眼を恐れた。それは単なる気兼や遠慮ばかりではなかった。彼はいつも田原さんの眼が何処からかじっと自分の方を見守っているような気がした。そしてその眼が自分の心のうちにも在るような気がした。
 良助はよくふいと妹の許を立ち去った。みよ[#「みよ」に傍点]子は其処に置きざりにせられて、じっと兄の後姿を見送り、それから牛乳の壜の籠を取上げ、首垂れながら田原さんの家から出ていった。
 然しみよ[#「みよ」に傍点]子のその悲しみ
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