れから静かに答えた。
「判断は理解の後に来るものだ。然しそんな抽象的な議論はお前達のような若い者に譲るとしよう。だがお前にはまだ人間というものがはっきり分ってはいない。……何だったかね、そうそう徳蔵のことだ。妻を失ったことが徳蔵にどんな打撃を与えたか、お前には分るまい。お前も知ってる通り、徳蔵はこの家から出て後ずっと砲兵工廠に働いていた。彼の妻は家の中で内職をしていた。そして貧しい中に良助とみよ[#「みよ」に傍点]子とを育てていたんだ。そのうちに突然妻が死んだ。良助は今の通り家に来ることになった。徳蔵はその時から酒を飲み出したんだ。今日も彼は云っていた。『人間には心の中に火を燃すことが大事だ。私等のような者は酒で火を燃すより外仕方がない。』そのことをよく考えてごらん。今分らなくても、お前にもいつかそのことがはっきり分る時が来る。」
 重夫は珍らしい父の雄弁にじっと耳を傾けていたが、やがて云った。
「私にも大体は分ります。然しただ分っただけで、その先をどうしようということがなくちゃ、何にもならないじゃありませんか。」
「何にもならないと云えばそれまでだがね……。」
 その時田原さんは、眼の下に細い皺を寄せて苦々しい微笑を洩らした。田原さんがその苦笑を人に示すことは極めて稀であった。で重夫も、何か父を苦しめることのように感じて、そのまま口を噤んでしまった。
 田原さんはそれから急に散歩に出た。九時すぎに彼は帰って来た。それから一時間許り二階の書斎に上っていた。そしてまた下りて来て此度は庭を歩き廻った。
 木の葉一つ揺がない静まり返った夜であったが、庭の中には何処からともなく涼しい空気が流れていた。空には星がきらきら光っていた。軒先に蒼白い光りが流れているのを見ると、月も出ているらしかった。その地上の暗い夜の静けさと、空から洩れる明るみとが、妙に不調和な雰囲気を作って人の心を唆かした。
 田原さんは唇をきっと結んで、時々立ち止った。そして空を仰いで肩を聳かしたが、またすぐに植込の向うに見える灯をすかして見たりした。やがて彼は何ということもなく、座敷の方から玄関の方へ歩いていった。
 と急に彼は立ち止って瞳を凝らした。玄関の横の四畳半の縁側に黒い人影が佇んでいたのである。それが良助であると分ると、田原さんは初めて声を掛けた。
「良助か。何をしているんだ?」
「旦那様でござい
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