、一服する隙もありませんからね。」
「それは骨も折れるだろうが、そう休んでいてはみよ[#「みよ」に傍点]子が困りはしないかね。」
「なあに、大丈夫でさあ。その代りよく可愛がってやりますんだ。あれも不憫な奴ですからね。よく膝の上に抱っこして子守唄をうたってやりますよ。するとね、眠ろうとはしないで、噴き出してしまうんです。私もね、一緒になって笑うんです。何しろもう十二になるんですからね。然し悧口ですよ。私が造兵から帰って来て寝ようとすると、肩を揉んでくれますよ。」
「然しよく怒鳴りつけることもあるんだろう。」
「それはね、ただ酒がねえ時でさあ。然し不思議なもんですよ。酒が無くって怒鳴り散らすと、丁度酒を飲んだような気持ちになりますんだ。心が煮えくり返るようでね。そんな時に私は膝に抱っこしてやるんですがね、そして子守唄をうたうんです。すると大抵は二人で笑い出すんですがね。どうかすると奴《やっこ》さん泣き出しちまうんです。私もね、つい鼻を啜るんですがね。……いや火を燃すに限るですよ。泣くなんて余りいい気持ちのものじゃねえ。どうも泣くのはいけねえや。私はこう思いますがね、人間てものは始終火を燃していなけりゃいけねえと。」
「然しね、酒で火を燃さなくても、他のもので燃した方がいいよ。」
「そりゃ、旦那みたようだと、そういきましょうがね。私等には、うまくいかねえですよ。何しろ裸一貫ですからね。」
 田原さんはじっと徳蔵の顔を見つめた。
「お前は家内を亡くしたのがいけなかったんだね。」
 徳蔵はその言葉をきくと、急に腰を立ちかけたが、またそのまま身を屈めた。
「旦那、死んだ奴のことは余り考えるものじゃありませんね。」
 その言葉は田原さんには非難の言のように響いた。で彼は何とも云わないで徳蔵の方をじっと見やると、徳蔵は殆んど無感覚のような没表情な顔をして、ぼんやり視線を向うの庭石に定めていた。
 庭はもう一面に日が陰っていたが、傾いた太陽の光りを含んでぎらぎらと輝いている空からは、炎熱の余光が地上に降り濺いで、物の隅々まで影の無い明るみを作っていた。二人はそれきり黙ったまま、ぼんやり庭の方を眺めた。風も無い庭の木立が、如何にも静まり返っていた。
 その時女中が田原さんに、お湯の沸いたことを知らして来た。
 徳蔵はその時急に立ち上って帰ろうとした。
「おい一寸待ってくれ。」
 田原さ
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