ね……。」
そう云って田原さんは何とも云えない表情をした。心持ち眉根を寄せて眼を細くした様が、しげ[#「しげ」に傍点]子には丁度泣き顔のように見えた。
でしげ[#「しげ」に傍点]子も妙に悲しくなってそれ以上何とも云わなかった。
その四…………
その五…………
三
田原さんは夕方、庭に出て草木に水をやった。それは夏の間の彼の日課の一つだった。冷たい水に昼間の炎熱と埃とが洗い落され甦ったような色に輝いてくる草木の葉は、直接に彼の心に迫って、彼の心を生々さした。高地芝と飛石とその間に配置せられた松、その右手の奥には大きな岩石が据えられて、蔦の葉が絡んでいた。左手の奥には樫や椎の立木がこんもりと茂って、その向うには湯殿の煙筒から煙が上っていた。田原さんはただむやみとその庭に水を濺いだ。飛石の側には小さな松葉牡丹が黄色い花を開いていた。
庭に水をまき、暮れかかってぱっと明るい大空を仰いだ田原さんの姿は、如何にも静かであった。心持ち禿げ上った額と赤味を帯びている濃い口髯とのその顔には、別に何等の感情も浮んでいなかった。彼はただ在るがままの心で空と地との静けさを呼吸した。
良助が其処にやって来た時、田原さんは縁側に腰掛けていた。
「もう仕度は出来たのか。」と田原さんは云った。
「はい。」
「それではすぐに行くがいい。そして私《わし》が云ったように親父にそう云うんだよ。」
「それでは行って参ります。」
良助は夜学の包みを手にして田原さんから貰った金のはいった封筒を懐にして、家を出た。外に出ると彼は一寸立ち止ってあたりを見廻したが、それから急に足を早めた。彼は仲猿楽町の中央工科学校の夜学に行く途中、弓町の父の家を訪わねばならなかった。
良助は別に嬉しくもなかった。それかと云って悲しくもなかった。彼はただ自分が、田原さんの云い附けで何かしらぶつかって行かなければならないもののあるのを感じた。それが自分の実際の父であった。長い間田原さんの家に俥を引いて仕えていた父であった。砲兵工廠に働いている父であった。去年の暮に妻を失ってから酒の中に身を浸している父であった。田原さんに度々金の無心をしに来る父であった。何時も酔っぱらっていて、その息は酒臭かった。
良助はそっと戸口から家の中を覗いてみた。十燭の電気がぼんやりともっている下で、父の徳蔵は食事をしていた
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