とだ。腹を立てる方が悪いんだ。」
その三――
或る夏重夫は激しい胃腸加答児に罹った。
昼夜約十回に余る下痢を催し、三十九度内外の高熱が往来した。激しい渇に対して少量の飲料しか与えられなかった。医者は毎日便の検査をした。丁度赤痢流行の際だったので、医者はもしやと思ったのである。すぐに看護婦もつけられた。
田原さんはその中を毎日いつもの通り午前中だけ神保町の店に通った。午後彼は病人の枕辺に坐ってその顔を覗いた。夕方医者が来て診察する間、彼は次の室にじっと待っていた。そして医者から毎日殆んど同じ様な容態をきき取った。
家の中は凡ての人が静かに立ち働いていたが、静かなままに不安な空気がざわついていた。しげ[#「しげ」に傍点]子はやたらに気を苛立っていた。彼女はも一人医者を呼び迎えようと提議した。
「その方がよくはありませんでしょうか。」と彼女は夫に云った。
「そうだね、それもいいかも知れない。」
「それとも今少し様子を見てからにしましょうか。沢田さん(医者の名)も大丈夫だろうと云っていられますから。」
「そうだね。」と田原さんはまた云った。
「どうしましょう。早くしなければ困るではありませんか。もしか赤痢にでもなったらどうなさいます?」
「ではいいようにしてごらんな。」
それでしげ[#「しげ」に傍点]子はすぐに或る専門の大家を呼びにやった。
「だいぶひどいですな。」と云ってその博士は首を傾げた。
田原さんはそういう騒ぎの中にじっと控えていた。そしていつも口をきっと結んでいた。
それでも一週間許りのうちに重夫の病気は次第によくなっていった。病が急激に来ただけに癒るのも早かった。一週間すると起き上れるようになった。
その時しげ[#「しげ」に傍点]子は夫に云った。
「もう大丈夫でしょうね。」
「大丈夫さ。」と田原さんも答えた。
「ですけれど、あなた位張合のない人はありませんよ。あんな騒ぎの中にじっと落附いて、何を云っても『そうだね。』と仰言るきりですもの。私はそれでなお苛ら苛らしてくるんですよ。」
「いや病人がある時は落附いていなくちゃいけない。それに本当はお前よりか俺の方が余計重夫のことを心配していたんだ。」
「それでももしか手後れでもして赤痢にでもなったら、取り返しがつかないではありませんか。」
「そう。俺はただ種々なことを考えてばかり居たのかも知れないが
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