まにしておいた。そして暫く上坂の細君と交渉が絶えた。
 そのうちに女中の口からおかしな噂を彼女はきき込んだ。彼女が宇野の細君に向ってさんざんに上坂の細君の悪口を云ったそうである。――上坂の細君はもと素性の賤しい女である、お人好しの馬鹿である、云々と。
 しげ[#「しげ」に傍点]子はその時になって凡てのことがはっきり分って来た。そして温和《おとな》しい彼女も、宇野の細君に対して一方ならず腹を立てた。憤慨の余り彼女は夫に向って、凡てのことを話した。
 その時田原さんはこう云った。
「それはお前が馬鹿だからだ。ああいう人達と一緒になるからいけないんだ。よく自分のことを考えてごらん。お前は今腹を立てている。宇野の細君に対して腹を立てることは、お前自身を宇野の細君と同等の所へ引下げるからだ。あんな者と同じになりたけりゃ、いくらでも腹を立てるがいいさ。」
「だって余《あんま》りではありませんか。自分で上坂さんの奥さんの悪口をさんざん云っておいて、それを皆私が云ったように上坂さんの奥さんの所で饒舌ったんですもの。腹が立つ位はあたりまえですわ。」
「そうだ、お前が宇野の細君と同じ位な人間だったら腹が立つのが当り前だ。けれどお前はもっと偉くなっていなけりゃいけない。もしお前が宇野の細君よりずっと偉いなら、何も腹を立てるに及ばないさ。他人に対して腹を立てるのは、その者と同じ所に自分を引下げるからだ。何も宇野の細君と同じ者にならなくったっていい。世の中にはああいう人もある位に思って上から見下してやればいいんだ。」
 しげ[#「しげ」に傍点]子は不満そうな顔をしながらも、それには何とも答えなかった。
 それから数ヶ月たった。そのうちにまたいつしかしげ[#「しげ」に傍点]子と上坂の細君とは口を利くようになった。そして宇野の細君が、二人の間をしきりに離間していることが分った。そしてまた、宇野の細君は二人の間に立って妙な地位に陥った。
 その後宇野の家は他へ移転した。
 田原さんは云った。
「ああいう者は世の中にいくらも居るものだ。男にも可なりある。然しああいう人の嘘は、それ自身の罪悪じゃない。嘘をつかずには居れないような性格に出来ているのだ。そういう性格に向って腹を立てるのは、曲った木に向って腹を立てるようなものなんだ。真直な木が曲った木に対して自分と同じ様でないと云って腹を立てるのは愚かなこ
前へ 次へ
全30ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング