広田はそれきり何にも云えなかった。
田原さんは立ち上ると、先刻から襖の影で二人の話をきいていたらしい細君が、眼に一杯涙をためてあわてて玄関の式台に田原さんの下駄を揃えた。
田原さんは玄関でも一度広田を呼んだ。
「僕の云ったことは分ったろうね。それから原口へはつつまず事情を話しておく方がいい。実直な老人だから、話をすればよく分る。ただくれぐれも嘘を云ってはいけない。」
「はい。」と、広田は答えた。
田原さんはそのまま待っていた俥に乗った。
その翌日は雪であった。田原さんはわざと店に出かけないで、雪の降るのを書斎から眺めていた。そしてその晩、広田のことを妻と重夫とに話した。それからこうつけ加えた。
「広田は実際、金が必要であったに違いない。ただ物品をまた店に入れるについて無理をしたかも知れないが、それは反って彼のためにいいだろう。」
その二――
田原さんの隣りに上坂《うえさか》という家があった。其処の細君としげ[#「しげ」に傍点]子とはいつしか顔馴染になって、夏の夕方など静かな通りで立ちながら話をすることが時々あった。それからまた田原さんの向うへ宇野という人が後に越して来た。其処の細君もいつしか前の二人と親しくなった。そしてその細君は時々田原さんの家へ遊びに来たり、上坂の家へ遊びに行ったりした。四十許りの子供の無いヒステリックな女であった。
所がだんだん向うから接近してくるにつれて、宇野の細君はしげ[#「しげ」に傍点]子に種々なことを話した。それが皆他人の家の内情に関することであった。しまいには、その話が上坂の家の方のことに移っていった。――上坂の家は借財のために二度強制執行を受けたことがある。上坂の細君はもと賤しい素性の女であった、上坂の細君がしげ[#「しげ」に傍点]子のことをお人好しの馬鹿だと云った、云々。
実際人のいいしげ[#「しげ」に傍点]子はそんな話をただ「左様ですか。」と云ってきき流していた。そして相変らず上坂の細君とも挨拶を交わしていた。
或時のこと、丁度夕方しげ[#「しげ」に傍点]子が何の気なしに表に立っていると、其処に上坂の細君が通りかかった。しげ[#「しげ」に傍点]子はいつものように挨拶をした。すると上坂の細君は、その挨拶に答えもしないで向うを向いたまま通りすぎてしまった。
しげ[#「しげ」に傍点]子は何だか変だと思ったがそのま
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