その突然の来訪におどおどしていた。
「急な内談があるので、」と云って田原さんは座敷に通って広田の帰りを待った。
 四人の子供があって末の児が病中である家の中に、下女一人の細君はただまごまごしていた。それが田原さんにもよく分った。
 襖の影から男の児が二人指をくわえながら、交る代る田原さんの方を覗いた。
 九時すぎに広田は家に帰って来た。彼は着物も更めないでそのまま田原さんの所へ来て、頭を畳にすりつけん許りにしてお辞儀をした。
「子供が病気だそうだね。」
「はい。」と広田はただ答えたきり首垂れてしまった。顔色が青ざめていた。
 暫く沈黙が続いた後に、田原さんは云い出した。
「僕が突然やって来たわけは君に分っているだろうね。」
「はい。」と広田はまた低く答えた。
「僕は過ぎ去ったことは敢て咎めようとするのではない。然しああいうことは、もし店員全体に分ると悪い影響を及ぼすものだからね。」そして田原さんはじっと広田を見やった。「以後はよく注意してくれなくては困る。第一君は店の全部を取締る地位に在るではないか。その君自身が……いや僕はもうあのことに就いては何も云わない。君は十分悔悟している筈だから、ただ、このことだけはよく注意しておいて貰わなければならない。一度やったことは二度やり易いものだ。いいかね、一度行われたことは、後まで尾を引くものだ。それをよく考えておいてくれなくてはいけない。此度のことは君のためにいい修養だ。それを生かすか否かは全く君自身の力に在る。……僕の云うことは分ったろうね。」
 広田は黙って顔を挙げた。頬の筋肉を痙攣さしていた。
「ただ無謀な考えを起さないようにし給え。」と田原さんは云い続けた。「君はまだ四十に間もある。君の生涯はこれからだ。そして大に店のために働いてくれ給え、店を自分の事業だと思ってね、いいかね。」
 それから田原さんは、無雑作に紙幣を百円だけ其処に差出した。
「これは子供の病気に対する僕の心ばかりの見舞のものだ。取っておいてくれ給え。子供の病気はよく面倒を見てやらなければいけない。」
 広田は涙をぼろぼろと落した。そして何とも云わないで、ただ頭を低く垂れたままじっとしていた。
「今日は、一寸見舞に来たのだが、余計なことを饒舌って許してくれ。それでは僕は外に用もあるので……。」
「お心は十分に分りました。以後全く注意いたしますから……。」
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