田園の幻
豊島与志雄
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
−−
「おじさん、砂糖黍たべようか。」
宗太郎が駆けて来て、縁側に腰掛け煙草をふかしている私の方を、甘えるように見上げた。私に食べさせるというより、自分が食べたそうな眼色である。
「だって、君んとこに、砂糖黍作ってないじゃないか。」
「うん、貰って来るよ。今日はお祭りだから、誰も叱りゃしない。」
先日、夕食後の散歩の時、宗太郎が砂糖黍を二本折り取ってきて、私に食べさせたが、それがよその畑のもので、あとで小言が来た。それでも、東京からのお客さんに食べさせるためだったということで、ああそうか、と済んでしまった。おかげで、私は十本ばかり高値に買わせられた。東京からのお客さんには、へんな特権があるらしい。
日没後の残照の中に夕靄がたなびき、靄が薄らぐと共に明るみも薄らぎ空の星が光りを増してくる。
ドーン、ドーン、ドンドコドン、ドーン、ドーン……
太鼓の音がするようだ。耳をすますと、果して、八幡様の森の方で太鼓の音がしている。もうお祭りが初まるのであろう。
宗太郎が砂糖黍を二本かついで来た。まだ若くて、根本の方にしか甘みはない。私がジャック・ナイフを出してやると、彼は砂糖黍を一節ずつ器用に切った。
堅い表皮を歯でむいて、まだ薄皮の残っているやつを噛みしめるのである。青ぐさい仄かな甘みが、砂糖のあくどさと違って、野の幸を思わせる。
「お父さんどうしてるんだろう。」
砂糖黍の噛み滓を吐き出し、太鼓の音に聞き耳を立てて、宗太郎は呟いた。投網の夜打ちが済んだら、彼は八幡様のお祭りに行くつもりなのである。
彼の父の宗吉と私は、その晩、八幡様には行かないで、家で一献酌むことにしていた。お祭りといっても、特別な催し物があるわけではなく、飲んだり食ったりして打ち騒ぐだけで、その中に立ち交るのも私には却って気骨の折れることだろうと、宗吉が気を利かしてくれたのである。家で手製のドブロクを飲み、鶏鍋や野菜の煮付の外に、投網の夜打ちで取った川魚を甘煮にして、野趣を添えようというわけだ。投網を持ってる家は、今時、村には二軒しかないと
次へ
全9ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング