しい笑いをした。
私は杯《さかづき》を重ねた。
酒はごくいいのを頼んで、それを二本か三本、つまみ物としてはただ海苔と※[#「魚+昜」、233−下−20]の類、初めから酔ってる時には砂糖水、そして彼女と一時間か二時間、取り留めのない話をした。
それだけで私には充分だった。私は彼女の肉体を漁《あさ》りに来てるのでもなければ、彼女を愛してるのでもなかった。その愛慾の巷で時間を過すことによって、新たな生活の出発の一歩を、実人生に根を下した力強い一歩を、見出そうとしてるのだった。彼女はただ仮りの相手に過ぎなかった。――時によると、表を、新内《しんない》の流《ながし》が通った。ヴァイオリンの俗謡が響いた。夜分は、客を呼ぶ女の声が聞えることもあった。御詠歌をうたって軒毎に報捨を乞う遍路姿の娘の、哀れな鈴の音が鳴ることもあった。
三畳か四畳半の狭い室なので、夜は電燈の光で相当に明るかった。が昼間は大抵、窓に重いカーテンが掛っていた。私はいつもそれを一杯あけさした。磨硝子《すりがらす》に漉《こ》さるる日の光が、室の中を温室のようにした。窓を開くと、隣家の軒に遮られて僅かではあるが、蒼空が見えた。
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