を投じ去るのに最も好都合な場所があり、人生の現実の中にふみこむのに最も力強い戸口があった。
 狭い入り組んだ小路、小さな硝子の小窓から至る処に覗いてる無数の女の顔、物に憑かれたように飄々とうろついてる多くの男の影、その中にあって、軽い斜視の……近視の……乱視の……彼女の眼は、一種の美を持っていた。
「先《さき》のことは、まるで真暗よ。ここを勤めあげてから……それからどうしようって、当もないの。時々、お客さんが眠ってる間に、夜中に起き上って、眼をつぶって、じっとしてることがあるの、一時間も……。ただ真暗なものを、一心に見つめてるきり……なんにもありゃしないわ。」
 壁に軽く背をもたして、唇の先で煙草の煙を吐きながら、そんなことを云う彼女の顔には、どこかつんとした意地っ張りなところがあって、その眼には、鈍い視線の上に光が浮いていた。
 彼女は今年二十三、丙午《ひのえうま》の歳だった。
「大変な歳に生れついたもんだね。九族を殺すっていうよ。」
「九族……?」
「親子兄弟、一家眷族を、みんな打負してしまうんだ。」
「そう。やっぱりどこか強いのね。」
 他人事《ひとごと》のように彼女は云って、淋
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