……。私はまだ著述を断念しかねていた。――妻が娘を連れて、郷里へ実母の病気見舞に帰ったことが、私の気持を更に自由にした。
私は籠から放たれた小鳥のようなものだった。殆んど毎日市内を彷徨した。そして古い停滞した生活の気分を振い落そうとした。七年間の習慣の殼、頭と身体とにたまってる雲脂《ふけ》、薄暗い図書館と陰欝な生活との影、それを一挙に払いのけようとした。退職手当として貰った六百円のうち、百円を妻に送って、残り五百円を七年間の生活の影と共に空中に撒き散らそうとした。古い殼や雲脂や影は、利用すべきものではない。私はその五百円を、自分のためにも他人のためにも、有用に費すことを欲しなかった。その上、図書館生活のためか、或は貧窮な生活のためか、私は甚しい性慾の減退を感じていて、それが今後の新たな生活に対する不安ともなった。私は五百円を懐にして、学生時代に可なり知ってた各種の花柳の巷のうちの、最も人間味の濃い陰惨な方面をさまよった。そして偶然彼女を見出した。
種々の男の息吹《いぶき》がかかってる彼女の肉体、自分の肉体を資本に生きてる彼女の生活、そういう風に抽象的に見た彼女のうちに、不快な五百円
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