いてる姉ちゃんの言葉にいい加減な返事をしながら、あたしはやはりあの人のことをぼんやり考えていた。
 最初の時は夜だった。いつもの通りお店に出てると、黒いマントを着た背の高い人が通りかかった。声をかけると、じろりと見てから、すぐにはいって来た。二階の室に案内して、あたしは何だか、いつもより丁寧に挨拶をした。その人はマントを着たまま坐っていたが、だいぶ酔ってるらしい眼付と顔付とを、面白そうににこにこさして、三四軒寄ってきたが愉快だったと云った。そして五十銭銀貨を二つ出した。お茶代《ぶだい》をつけてとあたしが云うと、笑って頭を振った。親切な女がいて、あそばないでお茶だけならそれでいいと教えてくれたって……。そしてその女の名刺を持っていた。知ってる女だった。あたしは名刺をひったくった。それからお茶をくんでくると、その人は急に真面目な顔で、先刻《さっき》の名刺を返してくれと云った。返すものかとあたしは思った。そんなら眼の前で破いちまえ、というのがあたしの気に入った。名刺を返すと、その人はそれを裂いて火鉢の火にくべた。あたしは胸がさっぱりした。
 翌日の昼間、やはりあたしがお店に出てる時、その人が
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