く無くなっていった。初めは、自分の古い生活の影と共に一挙に溝《どぶ》に投ずるつもりのその金が、ひどく惜しまれた。金が無くなることは、彼女と別れることである。私は愛慾的な未練は更に感じなかったが、彼女のこと――彼女の生涯のことを考えていた。
自分の新生活、それから、愛慾の世界を背負ってる売笑掃、それがいつのまにか、「片岡さん、喜代ちゃん。」と呼び交わす二人の男女になっていた。――能面《のうめん》のような鏡の中の彼女の顔が、私の眼の前にいつも浮んできた。
或る日、彼女は私の顔をじっと見つめていたが、不意に私に飛びついてきた。その時私は、彼女の水荒れのした指先と可愛い爪とを弄《もてあそ》んでいた。その私の人差指を、彼女は黙って自分の口の中に持っていった。下顎の糸切歯の隣りに、ぽかりと恐ろしい穴があいていた。私はそれを深い淵のように感じた。
「どうしたんだい。」
「むりやりに引っこ抜いたの。」
その深い淵からくる一種の眩暈みたいなものに、私は打たれた……。
二 或る売笑婦の話
何だか息苦しくって、そして頭の遠い奥を金槌で打たれてるようで、あたしは眼をさました。布団のはじっ
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