いてる姉ちゃんの言葉にいい加減な返事をしながら、あたしはやはりあの人のことをぼんやり考えていた。
最初の時は夜だった。いつもの通りお店に出てると、黒いマントを着た背の高い人が通りかかった。声をかけると、じろりと見てから、すぐにはいって来た。二階の室に案内して、あたしは何だか、いつもより丁寧に挨拶をした。その人はマントを着たまま坐っていたが、だいぶ酔ってるらしい眼付と顔付とを、面白そうににこにこさして、三四軒寄ってきたが愉快だったと云った。そして五十銭銀貨を二つ出した。お茶代《ぶだい》をつけてとあたしが云うと、笑って頭を振った。親切な女がいて、あそばないでお茶だけならそれでいいと教えてくれたって……。そしてその女の名刺を持っていた。知ってる女だった。あたしは名刺をひったくった。それからお茶をくんでくると、その人は急に真面目な顔で、先刻《さっき》の名刺を返してくれと云った。返すものかとあたしは思った。そんなら眼の前で破いちまえ、というのがあたしの気に入った。名刺を返すと、その人はそれを裂いて火鉢の火にくべた。あたしは胸がさっぱりした。
翌日の昼間、やはりあたしがお店に出てる時、その人が、考えこんだように足先に眼を落して、ゆっくり通りかかった。あたしは声をかけた。その人は立止って、じっとあたしの方を見ていたが、いきなり大きな声で、ああ君か、と云った。そしてはいってきた。何だか沈んでる様子だった。昼間はここは実につまらない、君がいたんで助かった、昨夜《ゆうべ》の約束の酒だ、とそんな風に一人で云った……。
それから……いろんなことが思い出された。こんなじゃ今日は駄目だ、とあたしは思った。姉ちゃんがついてくれるのも無理はなかった。あたしは眼が悪い。夕方なんか表がぼんやりする。それを一生懸命に、あの人が来るかと、窓から覗いていて、他のことには一切気が乗らない。駄目な人に声をかけてみたり、物になりそうな人を通りすぎた後で気付いたりする。その日はほんとに閑《ひま》だった。まだ足が続いてる馴染のお客で、やって来そうな人もなかった。
そしてその晩遅く、あたしは一人でそっと起き上って、煙草を吸いながら、また胸算用をやっていた。もうここの家にも借金は大して残っていないだろう。それと、父の石塔の代の五十円だけだ。それくらい、あの人がどうにかしてくれるだろう。いつまでこうしていたって仕様がない。もう嫌だ。あの人がかりに一度に二十円使うとして、あたしのものになるのはその四分の八円、そのうちからまたいろんなものが差引かれる。その二十円をそっくり貰ったら、月に三度か四度でもいいから、こんな商売もせずに、一日ゆっくりあの人の側についておられる……。
その時、あたしはふとあの人の言葉を思い出した。僕は君の一生のことを考えているんだ、今のことじゃない、お婆さんになった先のことまで考えているんだ……。あたしは眼をつぶった。真暗なものが見えてくる……。石塔の代を盲目《めくら》の兄のところへ返して、それから、一生だって……。どこまでも、はてもなく、真暗な闇が続いてるようだった。あたしは笑ってやりたかった、が笑えなかった。泣いてやりたかった、が泣けなかった。歯のぬけたあとに冷い風が吹きこんだ。
長くたってから、あたしはそっと階下《した》の台所におりていった。戸棚の中を探して、冷い酒をコップで二三杯飲んだ。
それから、どうしたのか、あたしは眠ってる男をゆすり起していた。
「あたしが起きてるのに、眠るって法があるの。土竜《もぐらもち》みたいに、布団の中に頭からもぐりこんでさ……。お起きなさいったら。起きて頂戴よ。」
ふりの若いお客だった。なまっ白い額に柔い髪の毛が垂れかかっていた。それをかき上げながら、むっくり起き上って、あたしの方を頓狂な眼付で見ていた。
「何かして遊びましょう。ああそう、何にも道具がないわ。お人形が一つ……。それと、あたしがこうしてると、お人形のように見えなくって……。これから、時々来るのよ。そしてあたしを騙《だま》して頂戴。あたし男を騙したことはあるけれど、男に騙されたことは一度もない。それが淋しいのよ。何もあんたの奥さんになろうてわけじゃない。ただあたしを騙して頂戴、心まですっかり……。」
そんな風に、それからなおいろいろ、今覚えていないが、あたしはやたらに饒舌った。酔がまわって頭がふらふらしていた。そして臆病そうにしりごみしてる若い男の前に、あたしはつぶれてしまった。
その翌日の午後、あの人がやって来た。
あたしは眉をしかめて不機嫌な顔をしていたが、あの人の前に出ると、顔の皺がのびてしまった。君の顔には妙に皺や筋が少い、とあの人に云われたその顔を、思いきってしかめてやろうとしたが、それが出来なかった。そしてあの人のおおまかな捉えどこ
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