ろのない顔色をみてると、どうしていいか、どう云っていいか、分らないで、あたしはいきなり飛びついていって、引抜いた歯のあとの洞穴《ほらあな》へ、あの人の指をもっていった。
あの人は眼色を変えた。あたしは甘えるような調子で、事もなげに歯の話をした。
あの時、思いがけなく、子供心があたしのうちに戻ってきて、それが胸一杯になった。「片岡さん、ねえ、片岡さん、片岡正夫さん、」とあたしはあの人の名を呼んだ。それでもまだ足りなかった。あたしは泣いた、笑った。そしてあの人の名を呼び続けた。
あの人の様子はおかしかった。蒼い浅黒い顔をなお蒼くして、机に肱ついてる片手を、縮れ乱れた長い髪の毛の中にさしこんで、口と頬辺《ほっぺた》とで笑い、きつい眼付をしていた。その手と頭と笑ってる口ときつい眼とが、こわれた人形のかけのように、ばらばらになってあたしの眼にうつった。そして別な声が云っていた。
「喜代ちゃん、もう泣いたり笑ったり、つまらないことは止そうじゃないか。そんな仲でもあるまい。何もかも成行《なりゆき》に任せるさ。そして酒だ。酒を飲もう。」
あたしは自分に返った。心が落付いた。ただわけもなくぼんやり微笑まれた。あの人も微笑んでいた。
「そのうち、君と二人で一日ゆっくりどこかへ行こう。」
「ええ、連れてって頂戴。」
そして酒を飲みながら、とりとめもない話をした。来る途中でどんなことがあったとか、知人にどういう面白い男がいるとか、どこそこに旅した時どんな目にあったとか、そんなことをあの人は話した。酒もいつもより多く飲んだ。けれどあたしには二三杯きり飲ませなかった。その上あの人は、うわべだけ面白そうに話をしていたが、何だかいつもと違って、じっとあたしの方を窺うような眼付をしていた。ちゃんと坐ったきり、膝もくずさなかった。あたしが寄り添っていっても、それを避けたがってる風だった。あたしは妙に冷いものを、それから淋しいものを感じた。あの人に急に逢いたくなっても、処番地は知りながら訪ねて行くことも出来ず、手紙を出すことも出来ない、そうした自分の身がふっと頭にうつった。
「仕事にもいろいろあるけれど、働けば働くほど面白くなり愉快になる仕事は、よいものだ。働けば働くほど嫌な気持になる仕事は、いけないものだ。」
何かのひょうしにあの人がふと云ったその言葉が、変にあたしの心に残った。あたしは云いたいことが山ほどあるようでいて、何一つ云えなかった。そしていつもより冷い態度であの人を帰した。
そのことが、後でとても淋しくて仕様がなかった。あの人は一週間ばかり来なかった。その間あたしは、出来るだけ口を噤んで、眼をつぶって、じっともちこたえた。抜歯のあとの空洞《うつろ》が始終気にかかった。けれど自棄《やけ》は起さなかった。
そして次にあの人に逢った時、あたしは涙をおさえてあの人の肩に縋りついた。
「今日はあたし、あんたの側を一寸も離れない、離れたくない。」
「本当か。」とあの人は云った。
その調子が余り強かったので、あたしは返事に迷った。するとあの人は笑いだした。
「喜代ちゃん、これからどこかへ酒を飲みに行こう。君を酔っ払わしてみたいんだ。」
あたしは何だか腑に落ちなくてあの人の顔を眺めた。あの人はほんとに晴々とした眼をしていた。
三 或る不良少年の話
三月の末近い頃のことだ。俺は向島の牛天神の方から、言問橋をぬけて浅草の六区へ急いだ。もう夜の九時頃だった。そして活動がはねるまでに向うへ着かなくちゃならなかった。用があった。
言問橋が出来たてのことで、橋の手前のガードになってる下をぬけて、大川沿いに作られてる広い道は、高い柱に取りつけた電燈がぽつりぽつりと光ってるだけで、殆んど通る人もなかった。だが、向う岸の待乳山一帯の灯が川に映って、華かだった。電柱の影にかくれてカフェーの中を覗きこむようなものだ。
俺は急いでいた。すると、向うから薄暗がりの中に、一組の人影が浮出してきた。マントを着た背の高い男と、コートを着た背の低い女だ。低いというほどじゃないかも知れないが、男が高いので低く見えた。
向うではゆっくり歩いていたが、俺の方は急いでいたので、すぐに近づいた。一寸綺麗な女だった。眉を長くひいた眼瞼のくっきりした、細面《ほそおもて》のその顔が、素人《しろうと》ではなかった。そして……。
おや! と俺は思った。帽子を目深にかぶってる近眼鏡の、その男の顔に見覚えがあった。
チッ……俺は舌を鳴らして、物に躓いた風をして、道の端までよろけて、丁度そこにあった電燈の柱につかまって、屈みこんで下駄の鼻緒を調べる様子をした。燈台と同じに電燈も下暗《もとくら》しだ。その影から俺は、まともに光を受けてる男の顔を、横目ではっきり見て取った。片岡さんだ。
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