寒かった。淋しかった。いつまでも、どこまでも、そのまま歩き続けたかった。あたりはまだ寝静まって、ぽつりぽつりと、朝帰りの男の影が、幻のように見えていた。あの人……というただそんな気持だけで、あたしは何もかも忘れてぼんやりしていた。
それでも、病院にいって、看護婦にたのんで、歯のぬけたあとに薬をぬって貰った。
戻ってくると、男はもう帰っていた。姉《ねえ》ちゃんの小言をきき流して、あたしは二階に上った。これであのお客もしくじっちゃった、とそんなことを、三四度来たことのある男について、小気味よく考えながら、着物のまま布団にもぐりこんだ。歯の痛みはけろりとなおっていた。あの人のこともぼーっとなっていた。あたしはぐっすり眠った。
呼び起されるまでは眼を覚さなかった。起上ってからもぐずぐずしていた。お湯や髪結にいっても、何だかぼんやりして、いつもより時間をつぶした。
今日は休んでやろうか、とも思ったが、あの人が来そうな気がして、つとめてお店に出た。
お母ちゃんから、ちくりちくりと皮肉な針をさされた。この頃どうかしてるとか、馴染のお客さんがずんと減ったとか、なまけ癖がついたとか、そんな風に遠廻しに云われた。なんでもないのよ、とあたしは答えたが、そんならお前さんの腹の中を云ってみようか、と云われると、あたしは口を噤むより外はなかった。お店では、まるで出たての娘《こ》のように、姉ちゃんが付添ってくれた。
「ねえ、喜代ちゃん、」と姉ちゃんは低い声で云った、「もっとしっかりしなくちゃ駄目よ。あの人……大事にとりもつのはいいが……思い込むなんて、お前さんにも似合わない。こんなところに来て、酒ばかりのんで、碌にあそんでもいかないでさ、どうしたって場違いよ。場違いのお客なんか、長続きはしないからね。」
そんなことはあたしにも分っていた。またあたしは、あの人を思い込んでるのでもなかった。ただ、あの人と逢ってる時が一番気楽だった。様子をつくることもいらないし、嘘をつくこともいらなかった。というよりも、あの人の前では、様子がつくれなかったし、嘘が云えなかった。あたしは気儘勝手に自分を投げ出すだけだった。それかって、あの人から愛されるとも思っていなかった。あの人はいつも、あたしのことよりか、こういう商売をしてるあたし達というようなことを、ぼんやり考えてるらしかった。変に掴みどころがなかった。――あの人はいつも明るいのが好きだった。カーテンをすっかりあけて、窓に日の光がさすのが好きだった。夜分は電燈の光が薄暗いと云った。
あたし達のような商売の女には、愛ということと馴染ということとが、大抵の場合同じだった。三度逢えば三度分の愛がもてたし、十度逢えば十度分の愛がもてた。だから、あの人が度重ねてしげしげやってくるにつれて、あたしはそれだけの愛を持ったかも知れない。けれど……そればかりではなかったかも知れない。初めのうちは、あたしはあの人のことをのろけ話の種にしたこともあったが、後になると、あの人のことを少しも口に出さないようにした。口に出せなかった。
普通の色恋とはちがった別なものがあった。あの人にも、何だか足りないところと多すぎるところとがあった。気持がひどく内気で臆病なようだったが、考え方がごく大胆で厚かましいようだった。世の中のことにうとくてぽかんとしてるようだったが、人情の深いところまで見通してるようだった。機嫌がよくてにこにこしてる時もあれば、口を利くのもうるさいといった風な時もあった。身装《みなり》はさほどよくなかったが、お金のことには至って無頓着だった。一体に無口の方だったが、時々とってつけたように、上手な皮肉や洒落《しゃれ》を云った。声に出しては唄一つ歌わなかったが、よく口の中で何かの節《ふし》を歌っていた。顔色は悪いが、案外しんが丈夫らしかった。いつも酒を飲んだが、本当に酔うことはなさそうだった。あたしを相手にしてるが、別なことを見守ってるようだった。そしてただ、その辺の空気を吸いに来てるような調子だった。あたしには息苦しい空気だったが、その空気を吸わないではおられないといったように、しきりに通《かよ》ってきた。これから暫く来ないよと云って帰りながら、またすぐにやって来た。そしてあたしも、あの人の空気を吸わないではおられなかった。あの人の側にいると、自由でのんびりして、心の中が明るくなった。あの人が暫く姿を見せないと、あたしは暗いところへだんだん落ちこんでゆくような気がした。あの人と別れぎわには、あたしは泣くことを覚えた。
「女は泣く時には本当のことは云わない。男は涙を流す時には決して嘘をつかないが、女はあべこべだ。女が本当のことを云うのは、怒った時だけだ。」
そんなことをあの人は云った。そして自分で涙ぐんでいた。
お店で、側につ
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