く無くなっていった。初めは、自分の古い生活の影と共に一挙に溝《どぶ》に投ずるつもりのその金が、ひどく惜しまれた。金が無くなることは、彼女と別れることである。私は愛慾的な未練は更に感じなかったが、彼女のこと――彼女の生涯のことを考えていた。
自分の新生活、それから、愛慾の世界を背負ってる売笑掃、それがいつのまにか、「片岡さん、喜代ちゃん。」と呼び交わす二人の男女になっていた。――能面《のうめん》のような鏡の中の彼女の顔が、私の眼の前にいつも浮んできた。
或る日、彼女は私の顔をじっと見つめていたが、不意に私に飛びついてきた。その時私は、彼女の水荒れのした指先と可愛い爪とを弄《もてあそ》んでいた。その私の人差指を、彼女は黙って自分の口の中に持っていった。下顎の糸切歯の隣りに、ぽかりと恐ろしい穴があいていた。私はそれを深い淵のように感じた。
「どうしたんだい。」
「むりやりに引っこ抜いたの。」
その深い淵からくる一種の眩暈みたいなものに、私は打たれた……。
二 或る売笑婦の話
何だか息苦しくって、そして頭の遠い奥を金槌で打たれてるようで、あたしは眼をさました。布団のはじっこに寝ていて、身体半分がぞっと寒かった。向き直って、手さぐりに寄っていくと……違っていた。あたしはあの人の夢をみてたようでもあった。そのあの人と、手触りがまるで違っていた。――あの人はいつも酒を飲むだけで、あそんではいなかった。何かの調子であたしがそこまでもっていくことの出来た四度か五度、それくらいのものだった。あの人はそんなことに興味がないらしかった。あたしは極り悪い思いをしたことがあった。だけどそんな風なので却って、あの人の感じはあたしの気持にはっきり残っていた。――それが、まるで違っていた。あたしははっきり眼をさました。歯がずきんずきん痛んでいた。
あたしはそっと起き上った。着物をひっかけて、そこに坐りこんで、朝日を一本吸った。男はよく眠ってるようだった。あたしはいつのまにか、煙草の方を忘れて、歯の痛みの方を見つめていた。あの人のことを考えていた。それがどっちだかよく分らなかった。気がむしゃくしゃしてきた。やたらに癪にさわった。布団の襟から覗いてる男の頭が、鉄の丸《たま》のように見えた。
あたしは痛い歯を、下の糸切歯の次の歯を、やたらにゆすってやった。鏡台の方ににじりよって、鏡でのぞいてみたが……口を開いて指を一本くわえてる自分の顔が、ひどく醜《みにく》かった。あの人がよく私の後ろからそっと見た鏡の中の顔、そういう時の顔が一番好だとあの人は云っていた。……あの人はどうしてるんだろう。
ばか、ばか、とあたしは自分に云ってやった。そしてなお歯をゆすった。痛かった。痒いところをつねるような痛さから、もうそれを通りこして、頭のしんに響くような痛さになっていた。忘れよう忘れよう、心の底であたしは云った。そして歯をゆすった。何だかしらんが無精《むしょう》に腹が立った。そしてとうとう、力任せに歯をひっこぬいてしまった。
あたしはびっくりした。冷い風が、歯のぬけた跡から吹きこんで、身体中を吹き廻った。そのくせ、熱いきりきりした痛みが、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりまでのぼってきた。上の平たい根の長い歯を、あたしは懐紙《ふところがみ》に包んで、鏡台の抽出《ひきだし》にしまった。その時気がつくと、口の中が血で真赤になっていた。あたしは懐紙をくわえた。歯の跡が大きな空洞になっていた。身体にも心にも、力の心棒がなくなったようだった。あたしは泣きだした。
男の声がした。言葉は分らなかったが、はっきり声が聞えた。あたしははっとした。振向いてみると、男はねぼけた顔付で、不思議そうにこちらを見ていた。あたしは笑ってみせようとした。けれど、つぎほがわるく、またなさけなかった。頬辺を押えて顔を伏せた。
男はのっそり腹逼いになって、煙草を吸いだした。
「何をしてるの、そんなところで……。」
「歯が痛いのよ。」
「歯が痛い……?」
「あんまり痛むから抜いちゃったわ。癪にさわって……。」
云いかけてあたしはまた泣き出した。そこら中に当りちらしてやりたかった。どうにも我慢が出来なかった。
「歯が痛むくらい……、」と男は云っていた、「一寸医者に行ってくれば、じきになおる。……もう夜が明けてるよ。」
ほんとにもう夜が明けていた。窓のカーテンを開くと、室の中までぼーっと白《しら》み渡って、電燈の光が薄くなった。
「じゃあ一寸行ってくるわ。その代り、じきに帰ってくるから、待っててね。寝て待ってるのよ。屹度ね。」
そしてあたしは、慌てて着物を着て、裏口から飛び出していった。
薄曇りのどんよりした日だった。何だか夢の中のような朝の明るみだった。
前へ
次へ
全10ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング