たこと。何だか無性に癪に障って、コップで酒をあおって寝たら、一日逢わねば千秋の……と何度も寝言を云って、さんざん年寄りのお客にからかわれたこと。それから……。
嘘ともつかず本当ともつかない、煙草の煙のような話だった。そしていつも帰りには、彼女は私の袂に、敷島を一袋入れてくれた。
その一袋の敷島が、私の気を惹いた。と共に、彼女の眼に涙を見出すようになった。
眼の視力の鈍い、どこかきかぬ気らしい、白蝋の面のようなその顔は、涙にふさわしくなかった。けれどともすると、ふと言葉が途切れて長く黙ってる折など、彼女はぼんやり空《くう》を見つめて、我を忘れたようになっていた。そして殆んど無意識的に、眼をしばたたき、肩をこまかく震わせた。――彼女は泣いていた。
「おい、喜代ちゃん!」
彼女は放心の状態で、曖昧な微笑を頬に浮べかける……。がその時には、私の方で、もう眼に一杯涙をためていた。
「おばかさんだね。泣く奴があるものか。」
そして二人共涙を流した。それから接吻した。
彼女は時々軽い咳をしていた。唇の中程にはいつも濃く紅《べに》を塗っていた。その唇に私は自分の唇を自由に任せた。
「やたらに接吻しちゃいけないよ。病気なんか、接吻が一番あぶないから。」
「分ってるわ。ただ一人っきりよ。」
そして私達はまた長い隔てない抱擁をした。
私の膝の上に、私の腕の中に、惜しげもなく投げ出されてる彼女の肉体は、軟骨質の水母《くらげ》――もしそういうものがあれば――それのようだった。赤い錦紗《きんしゃ》の着物の下に、不随意筋の運動めいた、柔かな中に円いくりくりした動きを持っていた。そして私の眼の前に、すぐ睫毛《まつげ》が届きそうなところに、彼女の頸筋の真白な細《こま》かな皮膚が、平らに、広く、無限に伸び拡がって、温い雪――というものがあれば――それに蔽われた大地の肌のように、静に無際限に波動し初める。それが私を溺らしてゆく……。私は息苦しくなって、非常な努力で目玉を一回転させる。格恰のいい耳朶の端が、黒髪の下にふっくらと覗いている。私はそれにつかまる。――彼女の耳はごく柔かだった。
私は立上りかけると、彼女は無理に縋りついてきた。殆んど気品を帯びてるとさえ云えるほどの張りのある表情で、幾度も頭を振った。
「いや、いやよ。帰さない。」
「だって、困るじゃないか。僕にだって用もあるし……。」
「何だかいや。帰したくない。こうして始終逢ってても……それでどうなるの。お金だって……。それだけのお金があれば、間借りしてでも、立派にやっていけるわ。そりゃあ、あんたには奥さんも子供もあるし、あたしはこんなとこの女だし、分ってるけれど……ねえ、片岡さん、どうしたらいいの。」
「だからさ、僕も考えてるんだ。今のことじゃなく、君の一生のこと、お婆さんになった時のことまで考えてるんだ。二月《ふたつき》か三月《みつき》、半年か一年、それだけなら、今すぐにでもどうにでも出来る。然しそれから先がさ、さよならをするようなら、つまらないじゃないか、僕は君の一生のことを考えてるんだ。分ったかい、喜代ちゃん。」
私の語気は全く真剣になっていた。実際私は、彼女の一生のことを考えていた。
彼女は嘗て、横浜の海岸で身を投げようとしてるところを、見付かって家に連れ戻された。それから、父の石塔の金をさらって逃げ出した。それから世の中に孤立してきた。石塔の金を是非とも返してみせる、それが彼女の唯一の目的だった。
「それから先は、もう真の闇よ。」
話は嘘にせよ、真《まこと》にせよ、その時の彼女の眼付には不気味な光が籠っていた。
「あきれた女でしょう。」
そして晴れやかな笑い方をした。
その頃である。私は夢の中で素敵な詩を拵えた。胸が躍った。然し眼が覚めてみると、そのすばらしい詩の文句は、風に吹かるる落葉のように四方へ散乱してしまって、ただ二句が残ってるきりだった。
[#ここから3字下げ]
彼女を美しいとは云うまいぞ、
彼女を美《び》だと云おう。
[#ここで字下げ終わり]
実際彼女は美しい女とは云えなかった。顔立は私の好みにかなっていたが、少しつき出し加減の口のあたりに、余り怜悧でない卑しさがあった。私の心を惹いた眼も、普通の人にとっては一種の不具だったろう。ただ、その眼瞼の二重と耳の格恰だけは美事だった。――その彼女の全体が、私にとっては、泥土の中に影の中に転ってる美だった。
それを、明るい日の光の中に移したい、彼女を朗かな生活の中に返らしたい、と私は考えた。
一度私は彼女を外に連れて出た。然しそれは夜だった。日の光がなかった。一寸芝居を観て帰った。一度は食事をしに外出した。彼女は長いコートを着て草履をはいて、子供のような足取りで歩いた。
そうしたことで、私の五百円はわけな
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング