いたいことが山ほどあるようでいて、何一つ云えなかった。そしていつもより冷い態度であの人を帰した。
 そのことが、後でとても淋しくて仕様がなかった。あの人は一週間ばかり来なかった。その間あたしは、出来るだけ口を噤んで、眼をつぶって、じっともちこたえた。抜歯のあとの空洞《うつろ》が始終気にかかった。けれど自棄《やけ》は起さなかった。
 そして次にあの人に逢った時、あたしは涙をおさえてあの人の肩に縋りついた。
「今日はあたし、あんたの側を一寸も離れない、離れたくない。」
「本当か。」とあの人は云った。
 その調子が余り強かったので、あたしは返事に迷った。するとあの人は笑いだした。
「喜代ちゃん、これからどこかへ酒を飲みに行こう。君を酔っ払わしてみたいんだ。」
 あたしは何だか腑に落ちなくてあの人の顔を眺めた。あの人はほんとに晴々とした眼をしていた。

     三 或る不良少年の話

 三月の末近い頃のことだ。俺は向島の牛天神の方から、言問橋をぬけて浅草の六区へ急いだ。もう夜の九時頃だった。そして活動がはねるまでに向うへ着かなくちゃならなかった。用があった。
 言問橋が出来たてのことで、橋の手前のガードになってる下をぬけて、大川沿いに作られてる広い道は、高い柱に取りつけた電燈がぽつりぽつりと光ってるだけで、殆んど通る人もなかった。だが、向う岸の待乳山一帯の灯が川に映って、華かだった。電柱の影にかくれてカフェーの中を覗きこむようなものだ。
 俺は急いでいた。すると、向うから薄暗がりの中に、一組の人影が浮出してきた。マントを着た背の高い男と、コートを着た背の低い女だ。低いというほどじゃないかも知れないが、男が高いので低く見えた。
 向うではゆっくり歩いていたが、俺の方は急いでいたので、すぐに近づいた。一寸綺麗な女だった。眉を長くひいた眼瞼のくっきりした、細面《ほそおもて》のその顔が、素人《しろうと》ではなかった。そして……。
 おや! と俺は思った。帽子を目深にかぶってる近眼鏡の、その男の顔に見覚えがあった。
 チッ……俺は舌を鳴らして、物に躓いた風をして、道の端までよろけて、丁度そこにあった電燈の柱につかまって、屈みこんで下駄の鼻緒を調べる様子をした。燈台と同じに電燈も下暗《もとくら》しだ。その影から俺は、まともに光を受けてる男の顔を、横目ではっきり見て取った。片岡さんだ。
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