……引金が引けない。なぜだろう……なぜだろう……。
 私はピストルを放り出して、其処に泣き伏してしまった。
 ……小説というのは、それだけの筋でした。勿論、私が今お話したのよりは、もっと下手なたどたどしい筆付でしたが、それでも、私はそれを読んでぎくりとしたのです。小説の中に書かれてる青年は、私自身じゃありませんか。
 その頃は、私は友人達が山や海へ避暑に出かけた中を、一人東京に残って、或る長篇を書いていました。朝遅くまで寝ていて、午後は友人もいないので大抵昼寝をして、夕方散歩に出て、夜遅く仕事をしていたのです。ところが、素人下宿の二階に住ってるものですから、夜更けに外へ出ることは遠慮されて、筆が渋ってくると、いつも室の中を歩き廻ったものです。それが初めての長篇なものですから、どうもうまく書けなくて、殆んど毎夜の習慣のようになっていました。その上夜遅く、あたりが寝静ってる中に、一人で室の中を歩き廻ることは、何とも云えない気持なものです。昼と夜との違いはありますが、動物園の虎が檻の中をぐるぐる歩いてる気持に、私はよく同感が出来る気がします。私もよそから見たら、その虎と同じだったに違いありません。
 そういうわけで、私は小説を読んでぎくりとして、一体作者は誰だろうかと物色してみました。第一は窓、次に窓の見える縁側、次に女文字、その三つを集めて考えてみると、通りを挾んだ向うの家の娘に違いありません。
 ところが、その小説を受取った時には、その向う側の家には、四十年配の夫婦者と十二三歳以下の子供達と女中きりなんです。而も一週間ばかり前に越してきたのです。そしてその前には、四五ヶ月ばかり、浜野という会社員が住んでいまして、そこにハイカラな娘が一人いました。
 小説を書いてよこしたのは、その浜野の娘だと私は察しました。そこで私は、この処置を一体どうしたらよいものかと、考えあぐみました。ピストルの件は拵えものにしろ、私が夜更けた室の中をぐるぐる歩き廻ったのが、彼女に何か悪い印象を与えたことは事実に違いありません。さもなければ、それほど念入りの悪戯をされるわけはないんですから。或は、遠廻しの忠告かも知れないなどと、私は虫のいいことまで考えました。そして一度彼女に逢って、何とか詫びを云いたいと思いました。けれども、彼女の一家がどこへ越していったのか、はっきりしたところが分りませんでした
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