。移転の際、横浜の何処とかへと貼紙がしてありましたが、それを私は覚えていませんし、それとなく家の人に聞いても、やはり忘れてしまっているのです。で私は思い切って、向うの家へ行ってききましたが、分らないとの答えです。原稿の小包の消印も、横浜とだけしか分りません。
 然し、さほど重大なことでありませんから、私はそれ以上彼女の行方を探りもしないで、万一出逢ったら……ということにして、いつとはなしに忘れがちになりました[#「なりました」は底本では「なりした」]。
 すると、つい先々月のことです。私は鎌倉から汽車で東京へ帰る途中、彼女の姿を見かけたのです。
 六郷川の鉄橋のところを、あなたは度々通られたことがありますか……。それなら御存じの筈ですが、あの前後あたりのところで、電車と電車とすれすれに並んで、同じくらいの速力で走ることがよくありますね。
 でその時、私は汽車の窓から、何気なく外を眺めていました。すると、後からつつーと電車が速力を早めて追ってきて、少し追いぬくかぬかぬまに、こんどは汽車の方が早くなりだして、電車が徐々に後れだしたんです。愉快だと思って電車の方を眺めると、向うの窓からも皆がこちらを見ています。その二等車の、粗らに並んでる顔の中に、耳の上で髪を縮らした、眉のつんとした鼻の高い、細長い年若な顔が一つあって、それをちらと見た時、おや……と私は思いました。どこかにはっきり見覚えがあるんです。と、こんどは少し電車の方がぬき出して、二三間先へ進んだかと思うまに、一寸の間相並んで進んで、それから俄に、丁度潮の引くような工合に、電車がすーっと後れていました。そして、例の女の顔が消えかかった瞬間に、私ははっと思い出したのです。それこそ、浜野の娘です。あれから一年ばかりになりますが、彼女が外に出かけたり縁側に立ってたりするところを、二階の窓から時々見たことのある、それとそっくりの顔なんです。
 私はあせりだしました。けれども、もう電車はずんずん後れていって、汽車は益々速力を早めているんです。どうにも仕方がありません。
 それから私は、一人汽車の窓にもたれて、消え去った彼女の面影を思い浮べました。僅か一年ばかりのうちに、驚くほど伸び伸びと生長して……と云っちゃ変ですが、凉しい眼付や引緊った口元に、何とも云えない溌剌とした魅力が籠っていて、一人前の立派な女です。今もしその前に、
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