あの原稿をつきつけてやったら、彼女は何と云うだろう……そんなことを……笑わないで下さい……私はいろいろ空想に耽って、一人で微笑んでいました。
その空想からさめた時、汽車はもう新橋まで来てしまっていました。私は汽車から降りました。東京駅までだったのですが、空想からさめた咄嗟の考えで、彼女の電車を待つことにしたです。
その電車がなかなか来ませんでした。そしてさんざん待ちあぐんだ後、漸く電車が来て、胸を躍らせながら、赤切符もかまわずに、二等車に乗り込んでみると、もう彼女の姿はどこにも見当りません。私は馬鹿だったのです。大森か品川あたりで乗換えればよかったのです。それを下らない空想に耽ったばかりに、大事な機会を遁してしまいました。
それ以来私は、東京桜木町間の電車には、どんなに懐の淋しい折でも、必ず二等に乗ることにしています。
高木は息をついて、一息ぐっと飲み干して変に憂欝そうに口を噤んでしまった。
「それじゃ……何だね、君はその女に恋でもしたというのかい。」
「恋じゃあないんです。」と高木は真面目に答えた。「ただ、一目逢って話してみたいんです。ちらと見た彼女の顔が、変に忘れられないんです。こちらが汽車の窓で、向うが電車の窓で、両方平行して同じ速力で走っていた、そのことが、不思議なほどはっきりと心に刻まれていて、いつまでもひっかかってるんです。」
「そんなものかね。」
「それは変な気持ですよ。」
真顔で云われて、私も何だか少し分りかけてきたように思えた。
電車の音がまた響いてきた。初秋の日の光が澄みきっていた。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
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