下彫のように浮出していたが、作意は少しも現われていなかった。枯死そのものを表現すべき色彩の下から、一種の明るい気分が浮き上っていた。遠景の空は、一色の黝ずんだ灰色に手荒く塗りつぶされて、処々にカンヴァスの布目が覗き出していた。其処から糊塗しきれない空虚の感が、画面全体に漂っていた。何時までたっても出来上りそうに思えなかった。木下は長い髪の毛をかき上げるようにして、片手で頭を押えじっと画面を見入った。
 やがて彼は立ち上って、壁に懸ってる自分の作を一々見て歩いた。室の中は薄暗かった。彼は顧みて、暮れなやんでいる明るみの中の細かい雨脚を、窓から透し見た。それからまた樫の絵の前に戻ってきて、椅子に腰を落しながら、首垂《うなだ》れて考え込んだ。
 その時、信子がそっと扉を開いてはいって来た。彼女は、振り向いた木下に我知らず微笑みかけた笑顔をそのままにして、尋ねた。
「お邪魔ではなくって?」
「いいえ、ちっとも。」と木下は答えた。
 信子は真直に窓の所へ行った。細かい雨が降り続いていた。彼女は首をすくめた。それから煖炉の所へ戻って来た。火が消えかかっていた。彼女は薪と石炭とを投り込んだ。
「この室は寒かありませんか。」彼女は煖炉の側の椅子に腰を下しながら云った。
「いえ別に。……然し病室とは違いますよ。」
「そうですわね。私あの室に馴れているものですから、外に出ると急に寒いような気がするんですの。何だか自分まで病気になったような気がして……。でももう感染《うつ》ってるのかも知れませんわ。」
「なに大丈夫でしょう。第一感染る感染らないはその時の偶然の機会で、用心するしないは何の役にも立ちません。」
「まるでお医者様のような口振りをなさるのね。」
「いや実際私はそう思ってるんです。……然し肺炎は感染り易い病気でしょうかしら。」
「さあどうですか。」と信子は気の無さそうな返事をしたが、独語のような調子で云った。「私ほんとに困ってしまいますの。」
「どうしてです?」
「この頃何だか岡部の様子が変ですもの。私どうしたらいいか分らなくなってしまいましたわ。先《せん》にはよく岡部は私に何でも隠さず云ってくれましたが、……今でもよく種々なことを云ってはくれますが、肝腎な所をうちあけてくれないような気がしますの。遠廻しに種々なことを云っておいて、それっきり黙ってしまいますの。私にはちっとも岡部の気持ちが分りません。じっと私の顔を見つめているかと思うと、ふいに眼をつぶって、何を云っても返事もしないことがあります。また時によると、いつまでもお饒舌をすることもありますが、それも本当のことを云ってるのか皮肉で云ってるのか分らないような調子ですもの。長く病気で寝てると、苛ら苛らしたり淋しかったりすることもありましょうが、私の方がどんなに淋しいか分りませんわ。それに私の気持ちを少しも汲んでくれないで、いじめてばかりいるんですもの。私は岡部にだけは何にも隠したり嘘をついたりしないで、いつも本当のことばかり云っていますが、それを妙に……。」
 彼女は言葉を途切らして、何かを思い浮べようとする表情をした。
「病気をしてると、」と木下は云った「妙に神経質になるものです。」
 信子は頭を上げて彼の顔を見た。彼はその信頼しきったような淋しい眼付の前に視線を外らして、室の中を見渡した。それから、自分のすぐ前に立てかけてある画面に眼を据えた。
「その絵はいつ頃お出来になりますの。」と信子は声の調子を変えて云った。
「いつだか私にも分りません。」
「どうして此度はそうお苦しみなさるの。」
「どうも思うように描けないんです。」
「私本当はその絵を余り好きませんわ。何だか暗くって淋しすぎますもの。」
「然し樫も叢も皆枯れはてたものばかりのつもりですから……。私はもっと深刻な陰惨な気分を出したがって苦しんでいます。」
「ええ、それは私も存じていますが、そんな絵より、もっと明るいものの方が嬉しい気がしますの。私その絵を見てると心が悲しくなってきます。何もかも枯れたものばかりだなんて、思ってもぞっとしますわ。何か悪いことが起りはしないかというような気がして。」
「え、あなたは岡部君の……。」
「いえいえ、」と信子は口早に遮った。「そんな意味ではありませんわ。……岡部は私に……肖像を描いて貰えって……。」
「あなたの肖像を私に……。」
「ええ、前から考えていたと云っていましたの。」
「そしてあなたは何と返事しました?」
「モデルになるのは嫌だって云うと、なにただ肖像を描いて貰うだけだからと岡部は云いますの。」
「それきりですか。」
「ええ。」
「岡部君はどんな話の時にそれを云い出したんです?」
「どんな話って……別に何でもありませんわ。」
「君に描いて貰いたいものがあると、岡部君はいつか云ったことがあるが……。」
 木下は信子の顔を見た。彼女は彼をじっと眺めていた。その眼にはもう先刻の淋しい色はなくて、ただ露《あら》わな、自分を投げ出した余りに露わな輝きのみがあった。その輝きに引き込まれて、彼が彼女の瞳に見入ると、彼女は俄に、ちらと一つの瞬きでその瞳を大きな影に包み込んだまま、眼を伏せてしまった。
 赤く焼けた煖炉の光りが、薄暗くなりかけた室の中に、彼女の姿を横からくっきりと輝し出していた。火に軽く熱《ほて》った頬、皮下に汗ばんでるような滑らかな額、無雑作に束ねた乱れがちな髪、それらを支えてる丈夫そうな頸筋、頸筋からじかに上膊へなだれ落ちてる肩の線、襟をきつく合した着物の下には、凡てが球面で出来てる硬い弾力のある処女らしい肉体、――木下は、以前岡部に連れられて時々行ったカフェーで見た彼女を、今再び見出したような気がした。ただ眼前の彼女は身動き一つしないでじっと眼を伏せているのみであった。彼はその横顔を見入りながら、やがて云った。
「あなたは私に、あなたの肖像を描かせるつもりですか。」
「いいえ。」と信子は静に答えた。
 それから彼女は急に立ち上って、低い声で云った。
「私もうあちらへ参りますわ。」
 木下は思わず椅子から立ち上った。彼女は足を止めた。二人は釘付にされたように一寸立ち竦んだ。それから彼女は一歩ずつゆるやかに足を運んで、次に足を早めて、室から出て行った。
 木下は暫く其処に立ちつくしていた。憤激とも喜悦とも悲哀ともつかない云い知れぬ感情に、彼は胸を震わした。彼は倒れるように椅子に腰を落して、描きかけの画面を眺めた。「君の心の中に在るものが君の製作を裏切るのだ、」と云った岡部の言葉を思い出した。彼は身のまわりを見廻した。それから室の中を見廻した。信子の息吹きが至る所にあった。棚の上の石膏像には少しの埃もかかっていなかった。室の隅の筆洗盤は綺麗に磨かれていた。釘に吊してある外套の裾には少しの泥もこびりついていなかった。床《ゆか》は心地よく掃除されていた。花瓶には梅の枝が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]されていた。書物は棚の片隅に並べてあった。絵筆拭きの布が釘に下って乾いていた。煖炉の灰がすっかり取去られて水が適度に入れてあった。扉のわきには磨かれた靴が揃えてあった。凡ての道具が各々の場所に落付いていた。――彼はそれらのことに、老婆と二人きりの頃知らなかったそれらのことに、知らず識らず馴れてしまっていた。今それに気付くと、彼は自分が、やさしい女性の世話のうちに、如何に温く深く抱きしめられてるかを見出した。彼は信子の姿を眼前に描き出した。彼は病み臥してる岡部のことを想った。彼は深い寂寥に囚えられた。彼は唇を噛みしめながら枯れはてた樫と叢と芝生と陰欝な空との画面を眺めた。……彼は堪らない気になって、いきなりそれを真赤な色に塗りつぶした。
 室の中にはいつのまにか電灯がともっていた。彼は画筆を其処に投り出して、まじまじと電灯の光りを仰いだ。彼は立ち上って窓の所へ行った。窓の扉を開くと、なお降り続いている雨脚が、淡い電灯の光りを受けて、すぐ眼の前に白く注ぎかかった。彼はぞっと寒気《さむけ》を背筋に感じて、窓を閉めた。そして煖炉の側の椅子の上に蹲った。

     五

 翌日も雨が降った。雪が雨に代ってしまったことは、やがて春が来るのを想わせるのであったが、その想いは陰鬱な明るみと冷たい雨とに取り囲まれて、却って粛条たる気持ちを人の心に与えた。
 木下は朝から外出していた。信子は三度彼の画室に逃げ込んだ。
 朝、啓介は信子に云った。「木下君はどうしたんだ? 昨晩も夜遅くまで帰って来なかったし、今日も朝から出かけたりして。お前何か不快なことを云ったんじゃないか。」「いいえ、」と信子は答えた。然しその答えは真実だった。彼女にも木下の心がよく分ってはいなかった。前夜、木下が遅くなって帰って来る音を彼女は眠ったふりして聞いていた。それから長く眠れなかった。夜明け近くにうとうとして眼を覚すと、睡眠不足のため頭がぼんやりしていた。心は落付を失っていた。彼女は考えを纒めるために、画室に逃げ込んだ。
 昼の食事を済した後で、彼女は暫く画室にはいった。
 午後、彼女は吸飲《すいのみ》を取って啓介に含嗽をさした。うっかりしていた拍子に、吸飲の水を啓介の頬から蒲団へ少し垂らした。「いやに冷淡になったね、」と啓介は皮肉らしい調子で云った。横の方で看護婦が、乾いた湿布の布を畳んでいた。看護婦はちらりと眼を挙げて彼女を眺めた。彼女は啓介の言葉よりも看護婦の視線から、胸の奥に冷たい矢を受けた。夕食の仕度を口実にして、彼女は画室に逃げ込んだ。
 過去の大きな影が自分の後ろにすっくと立っているのを、彼女はいつしか幻に見るようになった。……神経質な継母と凡てに無頓着な父との下に苦しんだ幼年時代、女学校を卒業すると東京の地に憬れて無断で中国の故郷の家を飛び出して来た頃のこと、東京に住む遠い親戚の者等の冷淡、国許の両親の立腹、大きな都会の渦巻き、文学に対する幻滅、生活の困難、種々の誘惑、そして辛うじて身を落付けたカフェー、啓介との恋愛、啓介の両親の憤り、啓介と二人で逃げ込んだ木下の家、初めの苦しい而も楽しい五ヶ月、それから啓介の病気、一進一退する長い病気、苛ら立ちと疲労、――それらの過去が一つの大きな影となって、脅かすように彼女の後ろに突っ立った。彼女はその影が自分の上にのしかかって来るのを時々感じた。淋しげに眼を閉じている病人の側についていて、何にも見も考えもせずふとぼんやりとした瞬間に……夜遅く木下が室を出て行って、病人が寝返りをした後で、もう寝ようかと一寸躊躇した瞬間に、……夜中にふと眼を覚して、心持ち冷えてきた病室の空気の中に、病人と看護婦との横の方に縮こまって寝ている自分を見出した瞬間に、そして彼女は不気味な悪寒《おかん》に身を震わした。もし彼女が、「岡部が全快してさえくれたら……。」という平易な希望を見守っていたら、恐らくこの影は彼女を脅かしはしなかったろう。然し彼女は、病室の空気に余りに馴れ親しんでいた、余りに馴れ親しんで、その平易な希望をも何処かへ置き忘れていた。ただ在るがままの現在に、彼女は前方を塞がれていた。そして行きづまって停滞した彼女の心は、過去の影に脅かされた。脅かされた彼女の心を、更に啓介の執拗な眼が覗き込んだ。彼女は知らず識らずに木下の画室に逃げ込んでいた。画室は広々としていた。未来がうち開けていた。自由に呼吸することが出来た。一種直線的な傾向を持っている彼女の魂は、其処に出口を見出していた。
 彼女は椅子に深く腰を下して、じっと考えに沈んだ。然し別に何も考えてはいなかった。彼女はふと顔を挙げて、真赤に塗りつぶされた画面を見入った。それから窓の方を眺めた。雨はまだ降り続いていた。彼女は木下のことを思った。今はそれを思うのは一種の苦痛であったが、その苦痛の底からしきりに待たるるものがあった。彼女は待った。何を? それは彼女にも分らなかった。婆やがはいって来ると、彼女は卓子の上に在った書物を機械的に取り上げた。「いいようにして置いて下さい、」と晩の料理の
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