ことを頼んだ。婆やが出て行くと、彼女は書物を投り出して、またぼんやり夢想に沈んだ。
 暫くして彼女は立ち上った。画室を出て病室の方へ行った。啓介は眠っていた。看護婦は雑誌を読んでいた。彼女は一寸次の室に坐って、火鉢に炭をついだ。それからまた画室に戻って来た。椅子の上に身を落付けると、前夜の睡眠不足のために、胸の奥がかすかに痛むようで、頭が妙にほてっていた。足の先が冷えきってゆくようなのをじっと我慢《がまん》していると、幻とも夢ともつかないもののうちに意識が茫としてきた。……彼女は木下が帰って来たのを殆んど知らなかった。
 木下は信子の姿を見て、驚いて立ち止った。それから室を出て行こうとした。その時信子は、木下の姿を見て更に驚いて、俄に立ち上った。椅子が倒れた。その大きな音が二人を我に返らした。
「お帰りなさい。」と信子は云った。
 木下は扉を閉めて室の中にやって来た。
「何をしていたんです?」と彼は云った。その声は震えを帯びていた。
「この絵を見ていましたの。」と彼女は落付いた声で答えながら、前の画面にまた眼をやった。
「私はもうそれを思い切ってしまいました。」と木下は云った。「いつまでたっても書けそうもありません。昨晩と今日と、私は雨の降る中を歩きながら、種々考えてみました。実際馬鹿げた努力を続けていたものです。……岡部君の云うのが本当です。あなたの云われることが本当です。」
 彼は言葉と共に頬の筋肉を震わしていた。彼女はその顔をじっと眺めた。
「ではどうなさるの?」
「何よりも私達は、……岡部君の病気が早く癒るようにしなければいけません。」
 その言葉は最も残酷に彼女の心を揺った。彼女は下唇をかみしめながら、木下の眼の中を覗き込んだ。
 木下は一歩退った。
「木下さん!」信子はそう叫んで、上半身から彼の方へ倒れかかって来た。
「岡部君を……。」と木下は云った。然しそれは、水に沈んだ者が再び水面に浮び出ようとする最後の努力であった。彼は、下唇を噛みしめて眼を閉じている信子の顔を見た。
 もたれかかって来る彼女の上半身を、彼は両腕に受け取った。

     六

 啓介の世界は劃然と二つに区別せられていた。一つは病室内の世界――其処では凡てが余りに明るかった。天井板の木目から、襖の模様、壁についてるかすかな傷まで、彼は残らず知りつくしていた。看護婦や信子や木下の一挙一動、その動作を裏付ける感情、一として彼の眼を逃れることは出来なかった。他の一つは病室外の世界――其処では凡てが朦朧としていた。空が晴れているか曇っているかさえ、彼にはよく分らなかった。縁側の障子にはまってる硝子越しに垣間《かいま》見る空は、いつも陰鬱に夢のように彼には感ぜられた。寒暖、風の有無、それらは更に分らなかった。また画室や台所の有様は勿論のこと、すぐ向うの六畳の室の様子さえ分らなかった。皆がどういう顔をして何を話しているか、少しも分らなかった。病室の襖や壁や障子が、厚い鉄の壁ででもあるかのようだった。その鉄の壁の外部に在るものは凡て、視線と想像との届かない遠い距離の奥に逃げ込んでいた。そして壁の内部に在る凡ては、眩《めくら》むばかりの明瞭さを以て彼の眼に映じた。この恐ろしいほど透明な世界と恐ろしいほど曖昧な世界との対立が、絶えず彼を苦しめた。
 一室に禁錮せられた者の心に似ていた。劃然と範囲を定められた自分一人の世界の中に於て、彼の眼は益々執拗になっていった。用をする時の看護婦の手付きのうちに、彼女の心がそれに向いているか否かを彼は見て取った。診察する時の医者の取り澄した表情のうちに、彼は自分の病勢の経過を読み取った。「もう寝《やす》みましょうか。」と信子が看護婦に云う言葉の調子に、彼は信子の感情の状態を感知した。病室にはいって来てじっと彼の顔を眺むる木下の眼付に、彼は木下の心の動きを見て取った。彼がふと仮睡の眼を開く時、それを見てちらと動いた皆の顔色のうちに、彼は如何なる種類の会話が行われていたかを察した。
 然し連続的な推移を包容するには、彼の意識は余りに弱りすぎていた。最近次第に、木下が病室には僅かな間しか留らなくなったこと、信子が頻繁に病室をあけるようになったこと、木下が屡々外出するようになったこと、よく信子が早くから寝床にはいって看護婦が一人遅くまで起きてるようになったこと、木下の顔色が陰鬱になってきたこと、信子の眼が妙に輝いてきたこと、……それらを彼ははっきり意識していなかった。彼にとっては、瞬間のみが、個々に断ち切られた瞬間のみが、存在していた。
 斯くて彼は自分の病床の横の方に木下と信子と並んで坐っている時、二人の間に交《かわ》される眼の閃めきを見て、駭然として不安の念に襲われた。無意味な話題の間に、二人は頻繁に眼を見合った。或いは戦いの、或いは屈服の、或いは苦しい情熱の、時折の閃めきが、二人の視線の中に織り込まれていた。然し間もなく、木下が室から出てゆくか、信子が座を外すかした。啓介は苛ら立ってくる自分の心をじっと押えた。
 木下が室から出て行くと、信子は啓介の枕頭に寄って来た。そして氷嚢に手をあててみたり、気分はどうかと尋ねたりした。彼は「いい。」と答えた。彼女は床《とこ》の間《ま》から鋏を取って、口拭きの紙を切った。その不真実な行為に、啓介は顔を渋《しか》めた。
「うるさい。後にしてくれ。」と彼は云った。
「はい。」と信子は取澄した返事をして、向うに身を退った。
 啓介はじっとしていた。信子は黙っていた。そしてその沈黙が、やがて啓介には堪《たま》らない圧迫となってきた。信子は火鉢によりかかるようにして、畳の上に視線を落していた。石膏像のような冷たい横顔を彼の方に向けて、いつまでも身動きさえしなかった。
 啓介は荒々しく寝返りをした。そして待った。氷嚢を額から外した。そして待った。紙を取って口を拭き、それを枕頭に投り出した。そして待った。再び寝返りをした。そして待った。わざと蒲団から手を長く出してみた。そして待った。手を引込める拍子に上の掛蒲団をはねのけてみた。そして待った。然し信子は顔の筋肉一つ動かさなかった。ちらと視線を彼の方へ投げては、また石のように固くなって動かなかった。その無関心でない一瞥は、却って彼を苛ら立たした。彼は咳をした。看護婦が膝の書物を下に置いて寄って来た。そして痰吐を差出してくれた。まくれた蒲団を直し、落ちている紙を拾ってくれた。然し彼は不満だった。信子の手で為されなかったことが不満だった。彼はしいて眼をつぶった。室の中の有様が頭から離れなかった。吸入器、薬瓶、天井から下ってる電灯、何かこそこそ用をしている看護婦、膝の所に一つ黒い汚点《しみ》のあるその真白な服、そして信子はじっとしていた。どうしてああ動かないで居られるかと思われるほどいつまでもじっとしていた。息さえもしていないようだった。
 看護婦が用事で立っていった間に、そして台所で婆やと無駄口を利いている間に、啓介は仰向に寝直した、そして云った。
「おい、氷嚢を額にあててくれ。」
「はい、」と信子は答えて、云われる通りにした。そして尋ねた。「まだ頭痛がなさるの?」
 むしゃくしゃした気分が啓介の喉元にこみ上げてきた。
「まだ、だって? 前から僕に頭痛がしていたことを知ってたのか。」
「あら、そういう意味では……。」
「あら、だけ余計だ。お前はいつも中途半端な間投詞を使ってごまかそうとしてる。」
「まあ何を仰言るの、私いつも嘘を云ったことはないじゃありませんか。」
「うむ、お前はいつも不自然な言葉は使わないし、不自然な態度はしないと云うんだね。僕が何かしても、澄し込んで知らん顔をしてるのが、お前にとっては自然なんだろう。」
「でも私が何かすると、あなたはいつもうるさいとか静にしておいてくれとか仰言るんですもの。」
「だからほうっとけというんだな。」
 信子は口を噤んで何とも答えなかった。
「ほうっとけば向うから折れてくると思ってるんだな。」
 信子はまだ黙っていた。
「お前の方がいつも勝つにきまってるよ。病人と達者な者との戦だから。」
「あなた! そんなことを……。私出来るだけのことはしてるつもりなのに。」
「そして出来るだけ我慢《がまん》してるというんだろう。然し病人には我慢は出来ない。我慢強い方が戦には勝つにきまってるさ。僕はいつも負けている。然しお前との戦に負けたって、僕は別に口惜しくもないだけに鍛えられてきた。僕が悪ければいつでもあやまるよ。」彼の皮肉な調子はいつのまにかしみじみとした調子に変っていた。「然し僕にあやまらせないようにしてくれるのがお前の役目だ。僕は非常に疲れている。疲れている僕をいたわってくれるのがお前の役目だ。僕は非常に淋しい。淋しいから苛ら苛らするのだ。お前の心がこの頃は少しも分らない。お前の身振り、お前の言葉の意味、お前の眼付、お前の顔色、それらのものに包まれてるお前の考え、それは僕に分りすぎる位はっきり分っている。然し僕が知りたいのはそんなものではない。もっと大きな深いお前の魂だ。お前の本体と云ってもいい。それを僕はとり失ったような気がしている。僕に何もかも云ってくれないか。僕はお前に何も咎めはしない。僕の病気が悪いのだ。僕は死ぬかも知れないんだ。」
「いえいえ、そんなことが……。」と信子は叫んだ。
「お前はいつもそう云う。然し、僕が全快しさえしたら……という希望が、お前の心には無くなってるようだ。いや僕自身の心にも無くなってるような気がする。どちらが先にそうなったか分らないが、そういう行きづまった気分を、僕達は互に通じ合っている。一番悪い状態だ。僕にはどうしていいか分らない。二つの石塊《いしころ》のように、触れ合うことが互に傷つけ合うことになるのは、実際堪らない。」
「余りいろんなことを考えすぎなさるからいけないんですわ。」
 その言葉は、啓介が求めている所から最も遠いものであった。彼は、俯向いている信子の顔を、じっと眺めた。彼女はかすかに身を震わした。
「なるほどお前の云いそうな言葉だ。お前はいつも頭で物を云って、心で物を云ったことがない。」
 信子は黙って、益々低く頭を垂れていた。視線を膝の上に落して、肩をすぼめながら両手をきちんと重ねていた。その審問をでも受けてるような様子を見ると、啓介はたまらなく淋しくなった。彼はいきなり上半身を起そうとした。信子は驚いて彼を引止めた。彼が再び枕に頭を落付けると、彼女は彼の手に取り縋って、涙を流した。
「あなた、許して下さい。」と彼女は口の中で云った。
 然しその意味は彼には分らなかった。
「何もあやまることはない。僕達は互に触れ合う面が悪いんだ。」
 彼も涙ぐんでいた。その涙を流すまいとして眼をつぶった。二人共黙り込んでしまった。彼がそっと身体を動かすと、彼女は蒲団の中に手を差入れて、彼の腕をさすり初めた。彼はされるままに任した。いつまでも涙が止まらなかった。看護婦が戻って来ると、彼は涙を見られまいとして、蒲団の襟に顔を埋めた。
「私が代りましょうか。」と看護婦は云った。
「いいえ、まだよござんすわ。」と彼女は答えた。
 然し、次の室に木下の足音がした時、彼女は俄にさする手を休めた。啓介は蒲団から顔を出して云った。
「もういい。」
 襖をことこと叩く音がした。――木下は室にはいる前に、襖を軽く叩く習慣になっていた。信子は啓介の側を離れた。啓介は天井を眺めた。
 木下ははいってくると、信子の方をちらと見やって、火鉢の横に坐った。
「どうだい?」
「相変らずだ。」
 最初の言葉を交してしまうと、啓介は何故ともなく安心の情を覚えた。彼は、一瞬間前の狼狽《うろた》えた自分自身を思い浮べた。それが恥かしくなった。木下の姿を眼の前に見ると、あらゆる気兼や狼狽や敵意や嫉視は消えてしまった。長い髪の毛、ゆったりした額、頬の滑かな面長の顔には少し短かすぎると思われる鼻、肩の張ったわりには細りとした上半身、平素見馴れた親しい友の姿は、彼の心を落付かして、一種の力強さをさえ与えた。
「こ
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