。叢も芝生もそうだ。地面からも、物を芽ぐます力が泌み出している。陰惨な空からも、晴々とした明るい蒼空を思わする色合がどうしてもぬけない。作意《モーティフ》と出来上った結果とが背馳してしまうんだ。僕の製作は何物かに裏切られている。僕の心は何物かに裏切られてるようだ。僕は今それに苦しんでいる。」
 木下は云ってしまうと、両手を頭の下にあてがって、長々とねそべった。
 啓介は云った。
「それは君、君の心の内に在るものが君の製作を裏切るんだろう。」
「然し僕は、」と云って木下は一寸顔を上げた、「心の中にそんな変なものは何も持ってやしない。」
「なに、心の中には、意識しないものだって沢山あるんだ。それは兎に角、思い切って作意《モーティフ》を変えてしまったらどうだい。荒廃の中に蔵されてる芽ぐむ力といったようなものに。」
「僕もそう考えたことがある。然しそういうものはいつだって描ける。僕はあの景色を生かしてみたいんだ。それで努力してるんだ。曇った日には大抵出かけることにしてる。……君の容態が余りよくないのを放《ほう》っといて、出かけてばかりいるのを許してくれ。」
「なに構うもんか。僕はそれほど悪いんじゃないし、看護婦さんと信子と居れば充分だ。それよりも僕は却って、君の仕事の邪魔になるのが一番心苦しい。家《うち》との関係があんな風になって、信子と二人で君の所へ飛び込んで来て、半年とたたないうちにこの病気だからね。」
「そのことなら僕の方から御礼を云わなけりゃならないよ。君の叔父さんの内々の補助で、僕まで生活がいくらか楽になったんだからね。余徳の方が大きすぎる位さ。そんなことは心配しないで、早く病気を癒すことだね。」
「うむ。」
 二人が黙り込むと、看護婦は、胸部の浸布を取代える時間だと云った。そして信子の手伝いで、彼女はそれにとりかかった。
 その間に木下は、自分の室へ行って、和服と着換えて来た。湿布を取代えられた啓介は、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を深く蒲団の襟に埋めて、静に横わっていた。木下の顔を見ると、彼は云った。
「先刻の話の絵を見せてくれないか。」
「そうだね、まだ出来上ってはいないが、見せてもいい。此処に持って来よう。」
 然し彼が立ち上ろうとすると、啓介は俄にそれを止めた。
「いや、また後にしよう。何にせよ、出来上ってしまわないうちは、人に見られるのは余り快いものではない。出来上ってから見せてくれ給え。……それが出来上ったら、君に描いて貰いたいと思ってるものもあるから。」
「何だ、それは。」
 啓介は口を噤んで何とも答えなかった。

     三

 家は、画室を除いて三室きりなかった。啓介と信子とが飛び込んで来るようにして同居してからは、自然に玄関の土間の横の三畳が婆やの室となり、奥の八畳が啓介と信子との室となり、廊下と壁とを距てた六畳が、木下の居室兼皆の食堂となってしまった。啓介が病気になってからも、ただ奥の八畳が病室に代ったきりで、何等の変化も起らなかった。
 食事の時には、婆やが啓介の所についていて(勿論彼の容態が悪い時だけ)、木下と信子と看護婦と三人は、一緒に六畳で食事をした。啓介もそれを望んだし、それの方が台所の用には便宜だった。木下はその時々の気分によって、食事中黙りこくっている時もあれば、盛んに種々なことを饒舌る時もあった。看護婦はそれを木下さんの「曇り」或は「晴れ」と呼んだ。
 婆やの仕事の一部分は、いつのまにか信子が引受けてしまっていた。彼女はそれを、より丁寧に、より細心な注意で、やってのけた。彼女は木下の着物を畳んでやった。洋服の埃《ほこり》を払ってやった。汚れ物を婆やに洗濯さしたり、時には下駄の泥を拭いたりした。画室の掃除も時々自分の手で行った。
 夜になると、婆やはいつも早く寝たが、皆はよく遅くまで病室に起きていた。皆の途切《とぎ》れ勝ちな話をききながら、啓介は勝手に眠ったり眼を覚したりした。木下が立って行こうとすると、「も少し話さないか。」と啓介は云った。然し別に話すこともなかった。木下は書物を持って来て、寝転んで読んだ。面白い所になると声を出して病人に読んできかした。信子がそれにじっと耳を傾けていた。
「尾野さんはもうお寝みなすったら。朝が早いから。」と信子はよく看護婦に云った。――木下は朝遅くまで寝る習慣だったが、病室の横の方に看護婦と床を並べて寝ている信子は、大抵看護婦と同じ時分に起き上った。――尾野さんは、遠慮のない家の中の気分に感染して、笑いながら先に蒲団を被った。木下と信子とは、そして時々啓介とは、低い声で途切れ勝ちに種々な話をした。これと云って内容の無い、またそれだけに却って親しい気分の籠った話であった。
 何の花が一番好きかということで、木下と信子とは議論をした。信子は百合の花が一番好きだと云った。木下は仙人掌《さぼてん》の花が一番好きだと云った。仙人掌の花なんか可笑しくって馬鹿げてる、と信子は云った。百合の花は陳腐で月並だ、と木下は云った。然し百合の花には気品があっていい香りまである、と信子は云った。仙人掌の花はより崇高な気品とより多く余韻のある香りとを持っている、と木下は云った。第一仙人掌そのものが木だか草だか得体の知れない変なものだ、と信子は云った。仙人掌は球形であって、球形は最も円満なものの象徴だ、と木下は云った。それならば百合の根だって円っこい、と信子は云った。然し百合の根は多くの片鱗が集って円いのであって、全体が渾一した球形の仙人掌とは比較にならない、と木下は云った。でも刺《とげ》があるのは本当に円満でない証拠だ、と信子は云った。円満なものにも自身を保護する権利はある、悪を近づけないためには刺が必要だ、と木下は云った。然し刺は人を遠ざける、百合のように心から人を引き寄せる気高さの方が勝っている、と信子は云った。然し百合の花のように万人に媚びるものは真の気高さではない、と木下は云った。仙人掌の花は滑稽で、滑稽なものには気品のありようはない、と信子は云った。……啓介は横から口を出した。
「お前は仙人掌の花を見たことがあるのかい。」
「いいえ。」と信子は答えた。
「なあんだ! それじゃ議論になりはしない。仙人掌の花と百合の花とは凡ての感じがよく似てるじゃないか。」
「あらそうお。」
「似てるかな?」と木下は云った。
 郊外の夜は静かだった。時々遠くで汽笛の音がするのが、猶更あたりの静寂さを増した。二人は炬燵を拵えてそれにはいっていた。距てない友情、清くて温い病室の空気、更《ふ》けてゆく静かな夜、それらが一つに融け合って、いつまでも木下を引止めた。思い切って腰を立てようとすると、「こんな晩は遠い旅にでも行ったような気がしますわね。」と信子が云った。啓介はうつらうつら眠っていた。その顔を見ていると、木下は自分自身が淋しくなった。啓介が眼を開くと、「よく眠れる?」と彼は尋ねた。「眠れそうだ、」という返事を聞いて立ち上ろうとすると、「も少し話してゆかない?」と啓介は云った。「私ちっとも眠かありませんわ。」と信子が微笑みながら云った。木下はまた腰を落付けて、フランスの印象派の画家達の話をした。「彼等の苦闘の生涯を想うと、力強くもなればまた淋しくもなる、」と彼は云った。「推移があるから人生は淋しいのだ、」と啓介は云った。
 或る晩、木下は可なり遅くまで病室に残っていた。啓介は眠ってるらしかった。暫く待っても眼覚めそうもないので、彼はそっと立ち上った。そして忍び足で自分の室に帰った。
 信子は炬燵にはいったままぼんやりしていた。木下が居なくなると、急に室の中が寒くなったように感じた。それで、火鉢に炭をついで、また一寸炬燵にあたった。何処か隙間があるのではないかと、室の中を見廻してみた。啓介が眼を見開いていた。
「木下君は?」と彼は尋ねた。
「もう御寝みなすったでしょう。つい先刻《さっき》までいらしたけれど。」
「そう。お前ももう寝たらいいだろう。」
「ええ。今晩は何だか寒かなくって?」
「さあ、病気で寝てると寒いか暖いかちっとも分らないが……。」彼は中途で言葉を切って、暫く電灯の光りを眺めていた、そして云った。「お前は淋しがってるね。」
 信子は黙って彼の顔を見返した。
「淋しいだろう。」と彼はまた云った。
「ええ。」と信子は口の中で答えた。それからじっと啓介を見つめながら、前より少し高い声で口早に云った。「早くよくなって下さいな!」
「うむ。長く寝てると僕も淋しい。」
 啓介は彼女の方に眼を向けた。そして視線を外らした彼女の横顔を眺めた。
「然し木下君が居ることは、僕にとって大きな力だ。」
 信子は黙っていた。
「僕は、」と啓介はまた云った、「木下君が側に居てくれる間は、少しも淋しくないような気がする。お前はそんな気はしない?」
 信子は黙っていた。
「例えば、木下君が外に出かけて不在だと、妙に頼りない気分に襲われてくる。然し木下君が戻ってくると、何だか安心したような心持ちになる。病気しない前は、僕の方が年齢も上だし、読んだ書物の数も多かったせいか、何かと云うと木下君は僕によりかかって来た。所がこの頃では、僕の方が向うによりかかってゆきたいような気になっている。……お前もそんな気持になることがあるだろう?」
「ええ。」と信子は答えた。
「木下君が居ないと、お前も妙に淋しい顔をしていることがあるね。」
「でも、何だか悲しくなってしまうことがあるんですもの。木下さんが居て下さると力強いような気がして……。木下さんは妙に神経質な所もあるけれど、何処かどっしりしてる所があるようですわ。物につき当っても転ばないような所が……。」
 啓介は眼をつぶっていた。彼女は言葉を途切らして、彼が眼を開くのを待ったが、やがて云った。
「眠っていらっしゃるの?」
 啓介は眼を開いた。然し黙っていた。
「何を考えていらっしゃるの?」
 啓介はちらと眉根を寄せたが、すぐにその眉根を挙げて云った。
「僕は、お前の肖像を木下君に描《か》いて貰いたいと思ってるんだが……。」
「私の肖像を!」
「うむ。」
「いやよ、モデルなんかになるのは。」
「何もモデルになるというわけじゃない。ただ肖像を描いて貰うだけだから。」
「でも……。」
 彼女は上目勝ちに鴨居のあたりを眺めながら、身体を少し左に曲げた。そのため少し膝がくずれて、自然に腿から腰へかけて柔かな幾筋もの曲線を作った。曲線の中に歪められた肉体が快く波動していた。わりに細《ほっ》そりとして見える胸部から、ちぎって投げ出されたような円っこい両腕が、手応えのある重みを以てだらりと炬燵の上に置かれていた。眠りの足りない疲れた顔から、夢みるような濡った眼が覗いていた。啓介は、そういう彼女の肉体の表情を眺め、その表情を裏付けている彼女の感情を瞥見した、彼は眉根と鼻と上唇とのあたりに苛立たしい曇りを寄せた、そして云った。
「今のは冗談だよ。」
「何が?」
 彼は振向いた信子の視線を避けて、天井に眼をやりながら別のことを云った。
「お前はね、僕が看護婦の手に身体を任しているのを見て、一種の嫉妬に似た……。」
 彼はその言葉を云い終えなかった。名状し難い苦々《にがにが》しい忌わしい空気が、二人を囚えた。彼は引きつらした口の片角《かたすみ》をびくびく震わした。彼女は眼を大きく見開いて、輝きの失せた瞳をぼんやり空間に定めた。
 二人共黙っていた。
「もうお寝みよ。」と暫くして啓介は苛立たしい声で云った。
 信子は我に返ったように深い吐息をした。夜はしいんと更け渡っていた。彼女はも一度啓介の言葉を待った。
「寝ておしまいよ。」と啓介はやがてまた云った。
 信子は黙って立ち上った。そして看護婦の横にそっと自分の床をのべた。然し彼女は寝る前に、啓介の額の氷をみることを忘れなかった。啓介は黙り込んで彼女の手元を見ていた。

     四

 木下は画室の粗末な古椅子に腰掛け、両腕を組んで、描きかけの自分の絵を眺めた。樫の幹や叢は、幾度も絵具を塗り返されて、浮彫《レリーフ》の
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング