信子の姿が、一寸心に映じた。
彼がまた危く荒廃の感の底に沈もうとした時、画室の扉が開いて、婆やの顔が現われた。彼女は、床に落ち散っている紙屑や布片を見て、眼を円くした。
「どうなさいました?」
木下は答えなかった。
「御飯でございますよ。」と老婆は云った。
「僕は一寸出かけて来るから、後で此処を掃除しといて下さい。」と木下は云った。
彼はそのまま、帽子も被らず家を出て行った。白く霜のおりた野の上に、弱い日が輝き出していた。彼は当もなく歩き出した……。
彼は何処をどう歩いたか覚えなかった。ただ、後頭部にかすかな温みを送る朝日の光り、爽かな冷かな空気、霜の湿りを受けた黒い地面、何処かで鳴いた小鳥の声、遠い汽笛の音、それらを心に感じた。
八時頃、看護婦が三疊で髪を結ってる時、木下は始めて病室に姿を見せた。彼は容態表をじっと眺めた。その朝の検査によると、熱三十八度二分、脈九十、呼吸十八だった。痰に交った血液は僅かだった。
「岡部!」と木下は云った。
「何だ?」と啓介は答えた。
二人は一寸黙った。
「君は入院し給え。」と木下はやがて云った。「僕が凡て取り計らってあげる。それは僕の最後
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