啜り泣いた。啜り泣きながら苦しい夢幻の境に彷徨していた。画室の扉を開いて、信子が――それとも看護婦だったか――それとも、そんな筈はないが、岡部だったか――誰かがじっと覗き込んだようだった。彼は身動きもしなかった。いつのまにか外は霧が薄らいで、桃色の明るみに変っていた。煖炉の火が消えかかっていた。電灯の消えた室内に、茫とした盲《めしい》たような明るみがあった。
ふと木下は我に返った。泣いていたことに気付いた。凡ての妄想が消え失せた。彼は云い知れぬ憤激の情に駆られた。呪わしかった。あらゆるものが、自分の身が。そして呪咀の気分の下から、一切を解決したいという焦慮が湧き上ってきた。呪って生きてやれという絶望の念が湧き上ってきた。彼は画室の中を見廻した。壁に掛ってる画面の歪んだのを、一々真直になおした。室の隅のカンヴァスを、大小の順に置き直した。卓子の抽出の中を片付けた。棚の上の書物や道具をきちんと整えた。そういうことをしながら、彼は死を想ってるのではなかった。呪わしい自分の生を愛護して突進せんことを想っていた。棚の上の花瓶を見た時、彼は身を震わした。唇をかみしめ眼をつぶってもたれかかってくる
前へ
次へ
全106ページ中99ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング